日本橋・萬屋のお婆様 <C284>
歓迎の懇親会シーンを描いてみました。
■安永7年(1778年)3月10日午後 日本橋・炭屋本店・萬屋
義兵衛は日本橋具足町で炭商いをする萬屋の奥座敷で旅装を解き、これから挨拶するであろう炭屋主人を待っている。
やがて店のほうから大番頭の忠吉さんが奥座敷に入ってきた。
そして、丁稚が茶を配る。
「折角おいで頂いたのですが、夕刻まで主人・千次郎は手が離せないということで、ワシがお相手させて頂きます。
夕刻より、懇親の意味での食事を用意させます。
ただ、料理は全部取り寄せとなりますので、お口に合いますかどうか。
江戸で流行る珍しいものがあれば嬉しく思いますぞ。
あと『お話は明日午前中させて頂ければ』と申しておりました。
折角の江戸ですから明日の午後は、近隣を散策されてはいかがでしょうか。
また、主からこの店の二階の客間を寝所として使って頂ければと申しておりました。
一人寝が不安でしたら、登戸の中田も一緒に泊まればよいとのことです」
忠吉さんは丁寧に説明をした。
中田さんを見ると驚いた表情をしている。
「てっきり泊まるのは丁稚さんと同じ長屋の一角と思っていたのですが、お客様待遇というのはどういうことですか」
義兵衛さんは忠吉さんに尋ねた。
「確かに今回、ご主人様の要望で連れて来たのですが、義兵衛さんを上客に類する扱いというのは何か思惑があるのですか」
「これ、お客様の前で失礼なことを言うではない。
ワシもご主人様が何を考えているのかまでは良くは判らんが、この待遇は前例がない。
ただ、お前が持ち込んだ例の七輪を色々調べておったが、最終的にはこの店のお婆様の所へ持ち込んで長いこと話合っておったようじゃ。
その結果として『金程村から義兵衛さんが来たらこうせよ』ということを、予め決めていたようにも思える。
今しがた奥の勝手口から家にいるお婆様の所へ伝令が飛んでいったようじゃ」
何か知らない間に、想像以上に大事になっているようだ。
『義兵衛、油断するなよ。
これは、萬屋にとって鍵になる動きの前触れに違いない。
責任を負わされることがないように、十分注意することだ』
『竹森様、それはこちらからもお返しします。
大丸村のように暴走しないようご注意ください』
どうやら、同じ懸念を抱いたようだ。
この店の二階に宿泊させ、おそらく一階には大番頭が控えるのだとすれば、態のいい軟禁だ。
「なにやら大層なご様子ですが、どうかなされましたか。
僕は全くの田舎者なので、これが普通かどうかも判りません。
ただただ驚くことばかりです」
「いえ、大したことではございませんので、お気になされませんようにお願いします。
折角お時間もありますので、退屈かも知れませんが、少しわたくしどものことを説明させてください」
そして、道行で中田さんから聞いた話とほぼ同じ内容を聴かされた。
ただ、大番頭の忠吉さんは、やはり二代目が出身地の中野島村から引き抜いた人物ということが追加された。
夕刻になると、奥座敷の更に奥にある客間がざわざわし始め、丁稚が皆を呼びに来た。
客間に入ると、大丸村の婆様にも似た老婆が先に着席しており、その真向いに義兵衛は着座させられた。
横には中田さん、中田さんの向かいに忠吉さんがそれぞれ着席すると、やがて主人の千次郎さんが上座に着席した。
「本日は遠路、わざわざこちらの店までお訪ね頂きありがとうございました。
この萬屋の主をしております千次郎です。
登戸の中田からいろいろと聞いておるとは思いますが、なにやら不思議な縁があるのではないかという商人としての直感を信じており、こちらに来て頂くことをお願いしました。
座っておりますのは、こちらから、母の円、ここの店の番頭の忠吉、そちらの奥が登戸店の中田です。
一緒に食事を楽しみながら、まずは友誼を結びたいと考え準備していた次第です。
・・・ 挨拶中略 ・・・
では、杯を空けましょう」
それぞれの前に大きな箱膳が置かれ、料理が置かれている。
平皿の上に鯛の刺身。
角皿の上に、塩鮭の焼き物。
一つ目の丸鉢に、豆腐・木耳・春菊・大根のがんもどき。
二つ目の丸鉢に、人参・里芋・椎茸・絹サヤ・貝柱の煮物。
一つ目の小鉢に、蓮根・蒟蒻・梅麩・胡瓜・もやしの膾あえ。
二つ目の小鉢に、菜の花・油揚げの白胡麻あえ。
脇膳に、白米ご飯と味噌汁、沢庵。
そして、湯呑みと干し柿。
お酒の入った徳利とお猪口。
今まで目にしたこともないようなご馳走が並べられている。
お酒が入り体がホカホカとしてくる中、千次郎さんが料理に手をつける様子を窺いながら、食べ始める。
「この料理はどうですかな。
全部取り寄せですが、自分の所で作るより一流の料理店のものが旨いということもあります」
千次郎さんが料理について聞いてきた。
今でも通用する宴会席での口火は、「た」食べ物、「ち」地域、「つ」勤め=仕事、「て」天気、「と」富=経済なのだ。
王道の問いの受けから会話が始まる。
さすがに江戸は分業が進んでいるなど、少し斜め上からのコメントで対応する。
酒は危ないと警告しており、一通り頂戴した時点で解放されたのは幸いだった。
たわいもない受け答えや、ドキッとするような質問、家族や村のことなども、結構根堀葉掘聞かれた。
いつ終わるともはっきりしない会話の渦で、時には中田さんにも助けられ受け答えをする。
ひとしきり話が出て、酒も肴も切れ、大丸村のような醜態が起きることもなく、なごやかな内に食事が終わる。
少なくとも義兵衛以外は満足したようだ。
茶で喉を潤す段になり、おそらくこの中で一番権威を持っているであろうと俺が推測したお婆様が口を開いた。
「義兵衛さん、今宵はわたくしから七輪・練炭の話はすまいと思うておったが、どうしても一言いわせておくれ。
この七輪が萬屋の将来を左右する重要な物に違いないという気がしてならない」
千次郎さんと両番頭さんがスッと姿勢を正すのが判った。
「亡き父・七蔵が作り広げてきたこの萬屋は、それなりの商いを続けてはいるが、もう昔のような勢いがないのは見ての通りじゃ。
夫・重助は真面目だけが取り柄で所詮番頭でしかなかった。
なので、倅の千次郎に期待して立派な商家から嫁を採り家督を譲らせたのじゃが、父・七蔵が逝ってからは不調続きじゃった。
ありきたりの木炭を仕入れ、当たり前のように御用を聞いてまわり、帳尻だけ合せる日々なのじゃ。
その平穏な日々の連続、それも幸せなのかもしれん。
世の中の森羅万象に首を突っ込むという意気込みで名付けた『萬』の意気込みが失せたまま、この婆もこの世からおさらばかと思うておったのじゃ。
しかし、先日千次郎が七輪・練炭というまだ世にはさほど出回っておらぬ物を持ってくるではないか。
話を聞くうちに、父・七蔵がこの地に萬屋を開いた時の気概が蘇る思いがした。
そして、今宵義兵衛さんと話をするにつけ、こりゃ本物じゃという思いを強くした」
どうやら、人物試験には合格できていたようだ。
「このような物を苦労して世に出すには、何か思いがあるのじゃろう。
今直ぐ全部明かせとまでは言わん。
ただその知恵を萬屋に貸せ。
萬屋も、お前さんのやろうとする芝居に一緒に乗って踊ってやろうぞ。
なに、この店が素寒貧になったところで、元の農家に戻るまでよ。
千次郎、よいな」
どうやら、義兵衛の姿が、お婆様の目には父・七蔵のことを彷彿とさせたようだ。
中田さんは『この人誑しめが』と思っているに違いない。
鍵となるお婆様の独白ですが、どんどん長くなってしまいました。
次回は、翌朝に予定されていた打ち合わせの場面になります。
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