炭屋に応じての江戸行き・品川まで <C282>
■安永7年(1778年)3月10日 登戸村 → 六郷 → 品川
早朝、助太郎と打ち合わせをする。
「まず、登戸で得た銭30720文(=76.8万円)のうち、8000文(=20万円)を借りておきたい。
父は了解しているので、このことを伝えてくれれば問題ない。
次に、小炭団に合わせたコンロ。意味はもうわかったと思うが、早く設計を終わらせて作ってもらいたい。
そして、これを加登屋さんに見せて、普通の料理屋でも買ってもらえる仕上がりになっているか聞いて欲しい。
それと、どれ位の値段なのかも。
最後に、今村にある無焼印の七輪と練炭をできるだけ沢山持ってきて炭屋に渡して欲しい。
もう直ぐ、練炭は全く売れなくなる。
そうなったら、値下げして売ろうとする前に、炭屋から全数引き上げて加登屋さんの所で預かってもらっておいて欲しい。
暖を取るための練炭は、今年の秋まで店頭には一切出さないことが肝心なのだ。
詳しくは、江戸から戻った時に説明する。
あと、強火力練炭の代金1280文も忘れるなよ」
打ち合わせと言いながら、言いっぱなしになってしまった。
加登屋さんに出立の挨拶をすると、竹皮に包んだ握飯を渡してくれた。
「江戸は面白いところですが、若い人には危ないところです。
誘惑も多く、騙されやすいところです。
十分気をつけてくださいよ」
義兵衛さんだけの知識なら騙されることもあるが、俺という後ろ盾が控えているのだ。
いくら川崎の田舎に住んでいたとは言え、中に住まう俺には魔都東京に4年近く勤めていた経験もあるのだ。
村の皆を飢饉で餓えさせないという使命もあるのだ。
そうそう誘惑に惑わされるとこもあるまい。
しかし、義兵衛は丁寧にお礼を述べ、握飯をありがたく受け取った。
炭屋の店先に行くと、旅支度を整えた番頭の中田さんが待ち構えていた。
「これから、多摩川を下る運搬船に同乗していきます。
ここ登戸は、青梅から江戸へ行く材木を組み直したり、石材を運ぶための集積地になっているのですよ」
確かに、府中街道から船渡場に向うまでの間に、料理屋だけでなく宿屋、居酒屋など川筋を行きかう人を相手にした店があり、名前は登戸村だが、もはや登戸宿といった様相を呈していた。
番頭さんに先導され、運搬船に案内された。
行きかう船と比べると大きいほうで、そこそこの広さがある。
幅は1間半(約3m)、長さは5間(約9m)の平底船だ。
船頭1人と漕ぎ手が2人ついており、結構な荷物を載せることができる。
多摩丘陵の山村で作られた木炭の内、品質が良いものを400貫(=1.5t)、100俵を一気に運ぶことができる。
この船の行先は川崎宿の多摩川向かいにある六郷村で、そこから3里半(14km)の陸路で江戸まで運ぶか、荷を別の船に乗せ換え江戸湾沿いに運ぶのである。
陸路・海路の選択は、主に気象条件(海の荒れ具合と天候)による。
多摩川を船で下りながら、番頭さんは色々と教えてくれる。
「以前、父と一緒に小石川へ薩摩芋の種芋を貰いに行きましたが、江戸はどんな町なのでしょう」
「将軍様がおられ、ともかく人が沢山住んでいます。
半分がお武家様で、60万人くらいはいますね。
ただ、参勤交代で300諸侯と言われるそれぞれの藩からお殿様について出てくる方が多く、60万人のうち40~45万人位がこういった方で、実際に江戸在住の人は15~20万人位ですかね。
江戸在住のうち半分ちょっとが女なので、お武家様の所にいる女は10万人位で、常に女日照りでしょうね。
残りの半分の60万人が町人ですよ。
こちらは男女半々ですから、30万人が女です。
お武家様の威光に町人が群がっているという図にも見えますが、結局は町人がお武家様の普段の生活を支えている構図ですよ」
この時代に人口100万人を超える都市なんて、世界的に見てもそうそうある訳がない。
元いた時代でも、範囲が広くはなるが、東京は1000万越えの世界有数の人口をかかえる都市に発展しているのだ。
大きな違いと言えば、男女比率だろう。
この時代の江戸の町は2:1と極端に男が多いのが特徴なのだ。
登戸から多摩川を下り始めたが、結構早い流れに乗って東に進んでいく。
大山街道と交差する溝口、中原街道と交差する小杉を経て、東海道と交差する川崎宿に隣接する六郷へ至る。
下りということもあり、半刻(=1時間)もかかっていない。
多摩川でもこの河口近辺は六郷川と言い習わしており、里の地名も六郷となっている。
青梅から流されてくる材木筏はここが終着点で、木材問屋に引き渡されていく。
そして、船頭や舵取り・水主は筏をおりて、ここから青梅まで歩いて帰っていくのだ。
さて、六郷からは陸路で約4里離れた日本橋を目指す。
ここからは、他の街道とは違い海沿いの道を進むため、上り下りがない平坦な道となる。
途中、品川宿を通るが、そこで早めの昼飯を取る予定とのことだ。
道々、炭屋日本橋本店の主人・萬屋千次郎について背景を尋ね、次のようなことが判った。
・約100年ほど前に、武蔵野国橘樹郡中野島村の住人である彦七が木炭の棒手振で木炭販売を開始。
・木炭自体は、登戸村へ卸しにくる近隣の山村の人から買い受け、これを江戸方面に行商。
・行商では運びきれない木炭を手にし、江戸郊外の池尻村近辺に店を構え、そこから行商。
・二代目七蔵は思い切って日本橋に進出。なんでも手がけるという思いから、屋号を萬屋と名づけた。
・日本橋に店を作ったときに炭の株仲間に加入。
・池尻村の店を閉める代わりに、登戸に木炭の集積地を求めた。
・現在番頭の中田さんは、二代目七蔵が池尻村の店の丁稚から抜擢。
・三代目は養子(重助)で、主人として君臨した時期は短い。二代目が存命中に能力の秀でた息子に家督を譲る。
・三代目重助はすでに存命していないが、母は存命。
・千次郎の歳は40で、子供は12歳になる男子、8歳の女子、6歳の男子あり、愛妻家。
・中背で体は鍛えて締まっており、本読み好きで、茶の湯や句会はよく行くが、宴席での遊びは苦手な真面目人間。
・本店の主な差配は大番頭が行っており、主人は大番頭の報告と帳簿で日々の確認をしている。
・店は日本橋の本店と、登戸の支店だけで構成されており、本店は15人くらいの奉公人が勤めている。
・木炭は、武蔵国橘樹郡・都筑郡の村を知行地としている旗本の一部、大店を中心に売る大口と、棒手振で江戸町内を回る小口の商売をしている。
・今の時期は大口顧客の木炭の消費状況を調べて回っている。
・夏場は、新規大口顧客の確保と御用聞き、多摩丘陵地区の山村で買い付け準備のための下見を手分けして実施。
番頭さんの感触では『頭が良く、周りのことを整理して全体を把握する能力に長けているが、実質の3代目で、暖簾を大事にして積極的な動きはとっていないように見える』とのことだ。
二代目七蔵が木場の同業者のところから、主人・千次郎に嫁を探してきて娶わせた15年前が業務拡大の頂点だったようで、その後は維持するだけで平穏に商売している。
丁稚から抜擢された番頭さんの眼鏡越しなので余計な感情も入って居るかも知れないが、どうやらこの店では二代目七蔵がかなりのやり手で、その娘にあたる千次郎の母が、攻めるとすればポイントになりそうだ。
そんな話をするうちに、品川宿にさしかかった。
江戸湾内の海上旅客制限が良くわからず、川崎(六郷)から陸路としました。
(これを調べるのに難航して何日もかかってしまった挙句に陸路とは!)
木炭は、羽田で海船に乗せ替えして、八丁堀へ向います。




