大丸村の堤防と宴会 <C278>
江戸時代では、きちんとした言葉になっていなくても、実際にできていることは沢山あったんだろうな、と思っています。ただ、定義して言葉をきちんと作る作業は、伝えたり継続するためには重要なことだと思います。筆者の想像ですがね。
「そんなことより、ゆっくり聞きたいことがあるじゃろ」
貫衛門さんが割り込んできた。
そして、座敷に大丸村だけでなく周囲の村も含めた絵地図を広げたのだ。
それぞれ親子同士で向き合う格好になっている。
「ほれ、前に来た時の、多摩川の洪水に備える件じゃ。
もう一度、説明をしてはくれんか」
もう開き直るしかない。
前回の話を繰り返した。
・上流でそれぞれの流れの勢いがまだ小さいときに行う対策
・堤防を守るために流れを制御する堤を設ける対策
・堤防に切れやすい所を作り、切れることで流れを鎮める対策
・堤防が切れたことで起きる洪水の範囲を適切に決め、それ以上拡大しないよう複数の構えを作る対策
・洪水になる範囲を予め決めて、早く復旧するための計画を作る対策
が主な内容なのである。
「やはり、何度聞いてもあきれる話じゃ。
堤防にわざと切れやすいところを作ることで、少しでも洪水を鎮めて全部が駄目にならないようにする、などと言うことは考えも及ばんわい。
貫次郎よ、この話を代官様や他の村の長に説明できるかな」
「理屈ではなんとでも言える気がしますが、実際に被害担当となる水田の所有者は受け入れんでしょうな。
『そんなことをするくらいなら、その分堤防を厚く高くすればよい』と言うに決まっている。
実際に実地にある堤防が理にかなっているのか、それに照らして弱点があるのかを見てもらったほうが良いと思いますぞ」
貫次郎さんがこう答えた。
確かに、利害関係が入り込むところに協議で決めようというのは無理があるだろう。
さらに、貫次郎さんはこう続けた。
「洪水の原因となる上流の対策については、さすがに多摩川の上流にまで手は出せんが、里のすぐ上流の三沢川なら対策の打ち様もあるやもしれません。
百村や坂濱のところだけでなく、源流域の黒川村とは話し合いをしたほうが良いかも知れません。
それに、三沢川の水位が抑えられていれば、多摩川が氾濫したときに水を引かせるための水路として使えると考えます。
もっとも、三沢川は最終的には多摩川に流れ込むので、ここの水位が下がっていないと使えませんよね。
あと、堤防に平行した内側の堤防、川崎街道をかさ上げした第三の堤防も、大丸村だけの施策では済みません。
前回、父に説明されていた分倍河原古戦場の河川敷に、洪水時に流れを制御する堤を作ってこちら側の山塊にぶつけ勢いを減じる策はいいとしても、その後の流れが対岸の是政村、小田分村、押立村に向うというところは、駄目でしょう。言わずもがなだと思います。
まかり間違えば、押立村が流されるような策は、取れるはずもありません。
押立村を洪水から守る算段を付けてからでないと、手が出せません」
非常に手厳しい意見だが、もっともなことだと思った。
確かに配慮が足りていなかった。
「大丸村を洪水から守るということで、息子が実情も知らずつい口を出してしまったようで申し訳ありません。
ただ、洪水の水をどう制御するか、ということについては被害の大きさ・多さを見て、考える余地がまだあるような気がします」
父・百太郎は多少の弁護をしてくれたが、前回言った内容があまりにも酷いので、言い訳の仕様も無い。
「まあまあ、ここは実際に多摩川と堤防を見てもらうしかないだろう。
現場を見てもらって、参考になる意見を伺うのが良いのではないのかな」
貫衛門さんの勧めに従い、4人で多摩川に向う川崎街道へ向った。
府中宿へ向う川崎街道と関戸村へ向う山道の分岐から1町(=108m)位の位置から、川に沿って村を守る形で、川下に向って堤防が延びている。
更にもう1町ほど川へ向って川崎街道を進むと、左奥の山際から延びてきている堤防が道のところまで来ている。
いわば川に対して左側に一枚盾を置き、少し間をあけて右側に1枚盾を置いた形になっているのだ。
この2枚の盾の間に川崎街道があり、川が氾濫するとこの2枚の盾の隙間(とは言え1町も離れているのだが)を遡って水が村の方向に入ってくる。
このとき、川を流れてくる水以外のものは、逆行してまで入ってこないようになっている。
更に川崎街道を進むと、川沿いの土手があり、是政の渡しに着く。
つまり、川沿いの土手を越えると、2枚の盾で濁流を抑え、抑えきれないと盾の間から勢いを殺した水が村に入ってくるという構造であることが見て取れる。
盾から川寄りに水田はなく、少し高い場所は桑畑になっている。
低い場所は水はけの良い砂地のような場所で、荒地のままになっている。
「実際に見させて頂くと、2つの堤防の間から入ってくる水を村の手前で川下に流す水路に沿って防ぐ工夫をすれば、十分な感じです。
被害担当の水田は、水路から多摩川寄りのところということですね」
論理的に説明していたつもりが、実際には経験からその通りになっていた、という結論になった。
「お分かり頂けましたか」
貫次郎さんは胸を張って言い切った。
「では、そろそろ家で夕餉の支度も出来ている頃です。
今夜は親睦を深めましょう」
芦川家に戻ると、座敷に上がった。
そこには、上座である奥の床の間から見て左右に箱膳が並べられており、箱膳の中には小皿に載せた料理が並べられている。
下座には、銚子や御櫃を用意した下女が控えている。
前回こちらで泊まったときは、囲炉裏傍での食事だったが、どうやら今回は饗応という形のようだ。
左右に分かれて芦川親子と伊藤親子が向き合って座る。
汁物とお銚子、山盛り飯が配られ終わると、貫次郎さんの奥方である幸さんが現れ、各人のお猪口にお酒を注いで回る。
「義兵衛さんは、お酒を飲まれたことがありますか」
との声に首を横に振ると、別に用意した甘酒を注いだ。
芦川貫次郎さんの挨拶で食事が始まる。
「本日はお忙しい中、……中略……、という訳で今後ともよろしくお願いいたします」
一同お猪口を掲げ、口をつける。
箱膳の小皿には、焼き魚、里芋の煮付け、若菜の酢味噌和え、豆腐、出汁巻き卵が載せられている。
正月でも見たことがないご馳走に驚かされた。
大人達は、箸を動かしつつ、酒を呷りつつ、互いに話をし始めている。
対角線上にいる貫衛門さんと百太郎の昔話がほとんどで、貫次郎さんと義兵衛は口を挟む余地もなく、時折相槌を打ちながら食事をするのだった。
「こいつが突然ワシに向って献策と称して、村で練炭を作れといい始めたのですよ」
結構酒が進んだ百太郎が、とうとう今に至る経緯を話し始めた。
「驚いたことに、練炭を売った金を年貢として納めることで、作った米がみぃ~んな自分達のものにできる、と言うのです。
それで、練炭を実際に作って売ってみたら、思いのほか高く売れる、これには驚かされました。
お殿様にこのことを知らせて、年貢を米ではなくて練炭を売った金で納めていいか聞いたら、すんなりと話が通ってしまったのですよ。
なにもかも、こいつが言うように話が進むので、名主の名前が必要なところだけワシが顔を出して、後は任せることにしたのです」
真っ赤な顔をして、酒の肴に義兵衛を持ち出している。
酒のせいか、地声が大きいせいか、怒鳴っているように聞こえる。
「義兵衛さんは、お父上に信頼されているのですね。
いやぁ、羨ましいですよ。
色々と変わった知恵をお持ちのようで、ゆっくりと話す機会が欲しかったのですよ」
酒を飲んで酔っていても、父や貫衛門さんとは違いはしゃぐ様子もなく、淡々と話す貫次郎さんだった。
余計なことは話すまいと構える義兵衛に、大人達はよってたかって質問を重ねる。
それを、のらりくらりと国会答弁のようにはぐらかす義兵衛、そんな中でも自分の話をしたがる大人。
良い酒・良い肴という状況も手伝って、宴席の場は次第にグチャグチャになっていった。
親睦を深めるという実態は、一緒に酒を飲んで腹蔵なく話をしたということだが、現実はこんなものなのだ。
結局、大人達3人はいつしかその場で酔い潰れてしまい、婆様・幸さんと義兵衛で寝床へ引きずっていく羽目になったのだった。
お酒は楽しくて恐ろしい液体です。江戸時代は、未成年でも平気で飲酒していたのかも知れません。が、高価なものは子供に与えないということで守られていたのかも知れません。




