上図師村と小野路宿 <C2565>
「鎌倉の頃に白山権現神社の領地図を描いた図師僧にちなんで図師村と名を付けておる。由来がはっきりしておるのは、この近辺では図師村くらいであろうな。この上図師村は約260石で1000石取り旗本・田中一郎右衛門殿の知行地で、鶴見川と支流の結道川が合流する場所にあって、稲作には便利だが、たびたび洪水に見舞われる厄介な場所でもある。対になる下図師村は約210石の石高で旗本の平岡中務殿の知行地となっておる。昔は上下に分かれておらず図師村とひとくくりにしておったが、相給になってからはもめごとを避けるため上下に分けたと聞いておる。同じ村なのに、それぞれの御家で統治方針が違うと何かと不便だからな」
上が複数になると統治が難しくなるのでいっそ分割する、というのはどこにでもありそうな話ではあるが、万福寺村のような石高の小さな村ではこれが難しい。
おおよそ600石という石高の図師村であったが故の二分策とも言えよう。
もし金程村70石が相給で対応すべき御殿様が二人という状況になると、煩わしさも倍以上になる。
その上、基本的な統治方針となる年貢割合が違う、などということが起きると領民や土地がどちらに所属するものなのか、というとても厄介な話になる。
一応、家格が上の殿様が村を仕切り、下位側の御殿様は決まった年貢を受け取り統治方針に口は出さないのが暗黙のルールとなっているようだが、上訴先を間違える百姓や、つい口出ししてしまう下格の旗本というマズい構図が出来てしまうことがある。
そうなると知行地には御公儀の代官が出張り、旗本は名目だけの知行と蔵米から支給される禄という図式になる。
実際に手足をもがれた武家となるのだが、要はそれで満足できるかどうかという気持ちの持ちようでもある。
「田中一郎右衛門様の館はいかがなされましょう」
安兵衛さんが気を回している。
「いや、上図師村では今回挨拶抜きじゃ。若君には上麻生村まで出張ってもらえば良かろう。
図師村については、御公儀から囲い米の触れが通知された時に家老と寄り合いをすれば良い。次に向かう小野路宿も同じじゃが、こちらは設備も整っておるゆえ、若君が上麻生村から足を延ばそうと申された折には、小野路宿に寄っても良いと考えておる。多摩丘陵の山中とはいえ鎌倉街道宿場の指定でもあることから、俄かでもそれなりの饗応も用意できよう」
「そうすると、これから向かう小野路村ではどういった予定となりましょう。旗本の館にでも寄るのでございましょうか」
「いや、小野路村は相給の主が図師村以上に多く、そのため支配関係がややこしい場所となっておるので旗本達への挨拶は抜く方針じゃ。旗本だけで4箇所、そこに小さいながら寺社領が3箇所も、それぞれ相給地として割り付けられておる村じゃ。それに、いずれも皆代官が差配しており、旗本の館はない。またどこかの代官に挨拶をすれば他を軽んじる訳にはいくまい。
そういったこともあり、宿場を差配しておる細野戸右衛門の所だけ顔を出す予定で文を出しておる」
用意周到に、よく考えて爺様は動いていることに義兵衛は感心した。
上図師村から圓福寺を通り北側の小高い峠を抜け小野神社に出ると、そこが小野路宿の南端になる。
小野路川沿いの3町(約310m)ほどなのだが、山間としては珍しく一直線の街道となっており、道の両側に宿や食事所がある。
突然現れた街道沿いの街並みに安兵衛さんが驚いた表情を見せた。
「これはなんとも面白い場所ですね。川の下流が大蔵村で、この谷戸の突き当りが関戸村でしょうか」
「下流は半里(2km)も下れば津久井往還道の大蔵村に出る。鎌倉街道と言いながら、横合いから川筋に出る所なので、意外な感じがするのも当然だ。山中なので遠回りを避けるため、木曽村から短絡する経路を作ったのだろうな。
それから、上流はまだ先が長い。この谷戸の突き当りを超えると、多摩川支流の乞田川沿いにある貝取村になる。そこから乞田川を下ると関戸村、多摩川を超えて屋敷分村(現:分倍河原、分梅町)を経て府中宿に至る。距離で言えば二里半(約10km)といったところだろう。貝取村に出るには山越えするから、この小雨では難儀する」
記憶をたどりながら簡単な説明はしたものの、他村の場所を歩き回ったこともないので、実父・百太郎の受け売り部分もかなりある。
「義兵衛。このあたりの地理をよく判っておるではないか」
「はっ、父が若い頃に近隣を放浪したことがあり、夜なべ仕事のおりにその時のことを面白おかしく話してくれたことが糧となっております。その折は迷惑と思って聞いておりましたが、今になって見れば有難い内容を多く含んでおりました。
是政の渡しで多摩川の南側にあった大丸村の名主は、父・百太郎の伝手で得たものです」
もっとも、この上麻生・小野路・図師については、実父・百太郎から聞いたことだけでなく、憑依している竹森氏から聞いた地理情報に依る所も大きい。
先の世では、津久井往還道が弘法松を通っておらず、万福寺村から麻生川沿いに上麻生村へ至る鉄道沿いの経路が新道として使われている。
そして、高石村から弘法松へ至る街道筋はいつの間にか新興住宅地として開発され尽し、どこが津久井往還道だったのかがもはや知ることもできないほど手が入ってしまっている。
そういった知識をベースとした説明に爺様は満足してくれているようだ。
そのまま目前・小野路宿の一番南端にある角屋と看板が出ている旅籠(現:小野路宿里山交流館)に立ち寄った。
「ここは細野殿が仕切っている店でな、この角屋のある場所はこの小野路という宿場を木曽宿など南側の圧力から守る要なのじゃ」
旅籠の亭主は土間に飛んで出てきて、爺様にひどく低姿勢で挨拶を始めた。
そして奥の茶室に案内しようとする。
爺様はそれを押し留めて土間で義兵衛を紹介した。
「いや、今回は次に椿井家を支える役目になる者を引き合わせておこうと思ってな」
義兵衛も卒なく挨拶をしたつもりだったが、戸右衛門さんは突っ込んできた。
「義兵衛様ですか。あの金程村に出来た工房の本当の主と言われている名主・伊藤家の次男坊と同じ名でございますが……」
ここで嘘をついてもしょうがない。
「工房を興したことで殿様から目をかけられ、家老家の養子として武家に入り仕えております。
伊藤家は元々北条家に仕えたこともある武家の出でしたので、家柄としては問題なかったようです」
「今日の所はそこまででよい。例の米蔵のことで、いよいよ本格的に準備せねばならぬ時期ゆえ、すり合わせることも多い。
今はとりあえずの顔繋ぎだけで、いずれゆっくり話をする機会もあろう。
邪魔したな」
妙にあわてた爺様はあわただしく旅籠を出たが、なぜか街道側の門前にずらずらと人が並んでいる。
「せっかくのお越しでしたが、御急ぎの様で、こちら側の人を紹介もできず申し訳ございません。
せめて関係者一同でお見送りさせて頂きたく、このように店前に揃えました」
なにか気味悪い印象を受けた義兵衛は、後で爺様に事情を聴きたいと思った。
図師や小野路など、かなりローカルな土地情報に振り回されました。
土地の歴史家の皆さまが積み上げた資料の多さに仰天。読み込むと同時に地形観察を兼ねて現地散策すると、これが結構面白くはまってしまいました。いろいろと言いたいこともありますが、まずはともかく鎌倉街道(古道)万歳です。




