鶴見川沿いで諸々の思索 <C2564>
館の爺様から工房に出入りする者をもっとよく観察しておかねばならないとの注意を受け、身の引き締まる思いをした義兵衛だが、実際の所は都度米さんに立ち会ってもらう必要があるようだ。
工房に勤めている人には出欠簿があり、皆寺子屋繋がりで顔見知りである。
それ以外の者については入工帳があって、居住地・名前・要件を記載しているのだが、これらの情報と顔が一致していない者が多いのが実情である。
単に木炭を運んで来る人足については、事務棟まで顔を出すはずもないので、中で籠っていてはいつまでたっても知りようがない。
そうなると、代表が顔を出した時に一緒に出て品質・数量を確認し受け取り書を出すのだが、そういった場で代表だけでなく人足相手に世間話でもして知り合うしかないだろう。
夏ならともかくこれからの季節、天候によっては吹き曝しの荷受け場所での立ち話はキツイのかも知れないが、元々が農家の次男坊だけにそういった環境には多少耐性がある。
「しばらくは荷受け窓口の仕事をさせてもらうしかないのかな」
「江戸詰めになっている間に軟弱になりよってからに。館の居る者達は今でも毎日百姓仕事も厭わずにこなしておるぞ」
主家の借財が無くなり多少なりとも裕福になりそうな今でも、家臣達は少しの間も惜しんで働いて稼いでいるのだ。
貧乏旗本の知行地では、武士も百姓もさしたる差はない暮らしをするしかないのだ。
「殿に『これからは利息で暮らせる』などと申したそうじゃが、それだけで暮らして行くのは間違いじゃろうとワシは思う。それに練炭という見えるものがあって儲かるとなれば、皆同じようなものを作り始めよう。そうすると、木炭加工ばかりでは立行かなくなることは自明じゃ。ゆえに、子供等だけで作っておる間は良しとしているが、大人達をかかわらせるのは良しとしておらぬ。片手間だけ、ということにして大人は関与を認めておったのじゃ。
今は工房をたんと拡張しておるが、作る物がなくなったら無用の長物であろう」
爺様なりに先を見通して対処していたようだ。
「はっ。それは重々承知しております。何の見通しもなく工房を広げた訳ではございません。
また、練炭では燃焼時間が揃っていることを特徴とするよう充分な品質管理を行っておりますので、よそで作られる製品に駆逐されるまでは思った以上に時間がかかるようです」
義兵衛は、いち早く小炭団が駆逐されると考えて生産を絞った挙句、江戸市中で小炭団不足を引き起こしていることを説明した。
「このように、一つの商品から手を引く時期の見極めは難しいです。今は暖を取るための練炭量産に励んでおりますが、同時に調理用に向く練炭を研究し量産できないかを考えております。今はまだ量産できる目途がたっておりませんが、これが上手くいけば、来年の夏場でも引き合いが出ると踏んでおります。
他所での生産で木炭加工が下火になる頃を飢饉の最中かその終わり間際と見ておりますが、工房はそのまま倉庫に転用できましょう。決して無用の長物にはなりません」
思わずムキになって言い返してしまったが、義兵衛の説明一言毎に爺様は頷き返し、それなりに納得しているようだった。
「そうすると、工房の体制は長く続かない、という訳だな。飢饉が終わる頃には以前と同じに戻り、子供等は無邪気に遊んで良いようになるのか。そのつもりであるのなら良い。
この夏は、皆がギリギリまで働いておった。村々では子供等の遊ぶ声がどこからも聞こえず寂しいものじゃった。なので、いくら飢饉対策とは言え、これが正しい道とは思えん。締め付けがきつく先が見えぬようでは、いずれ一揆が起きるのではと案じておったのじゃ」
爺様は、爺様なりに領民を案じていたことが良く判った。
「まあ、練炭作りを指導した名内村では大人供が主導して練炭を作るようにしているようだが、そちらはそちらで先の対処をすることで良かろう。一時の繁栄に酔い百姓仕事を疎かにした付けをどうしようが、それはこちらの埒外であろうからな。
ましてや、佐倉藩のことなど、一介の旗本の家臣が直接かかわりを持つと碌なことはない。殿からのお声がけでなければ、義兵衛が名内や佐倉へ行くことを反対したであろうな。
将来苦境に陥るのが判っていながら、僅かばかりの金子に目がくらんで貴重な技術を教えるとは、愚か者のすることじゃ」
どちらかと言えば、義兵衛が進めた策ではあるのだが、それを快く思っていない者もいることが爺様の本音から認識できた。
領民を慈しむ一方、それ以外の民百姓・町民については無頓着、という印象だ。
このような話をしながら麻生川沿いに出て南に下ると三輪村に出る。
そこから鶴見川沿いに上流へ向かい支流の真光寺川を超え、岡上村の対岸を西に進む。
大蔵村の西端に来ると、鶴見川は小野路川という支流に分岐している。
そのまま鶴見川沿いに上流、つまり西側へ向かうと野津田村を経由して上図師村・下図師村、北西の小野路川に沿って谷戸に入って行くと小野路村に着く。
つまり、ここは大きな2つの谷戸の合流する場所となっているのだ。
「細江泰兵衛様は小野路村、義兵衛様は上図師村をそれぞれの要地として示されましたが、それならばこの場所こそ抑えるのに必要な所となりませんか」
地名と位置だけを耳にすると誰もが思うであろうことを安兵衛さんが口にした。
「いや、ここに集落はないでしょう。今は渇水時期なので平穏な田が広がる風景にしか見えませんが、鶴見川は結構洪水が多い川で、何度も氾濫するのです。支流が合流するこの場所はまさに毎年洪水が起きる場所で、かろうじて稲昨ができていますが、住むには都合が悪い場所なのですよ。それで集落は山の麓から中腹にへばりついて建っておるのです。鶴見川越しの対岸に見えていた上岡村は交通の要所の一つですが、村は川沿いの主要道に面していなかったでしょう。村々を結ぶ地元道は川を避け山裾をぐるっと回り込むようにできているのです。
このような危ない場所を拠点にする訳には行かないのです」
「それとな、鎌倉街道じゃ。もし鎌倉街道の本道がここを通っておれば、ワシとて無視はせず上岡村か三輪村を選んだ。だが、街道は丘陵越えして小野路村と上図師村を結んでおる。丁度この場所を頂点にして左右に分かれた三角形を作っておるのじゃ」
館で見た地勢図模型では手前の上麻生村がギリギリ入っていたが、流石にこの近辺までは作れていない。
「納得できました。上麻生村の三井様の館からは下り坂という意識だったので、あのあたりが丘陵の高い場所かと思っていたのですが、どうやら違うようですね」
「うむ、細江村や金程村は鶴見川支流である麻生川の源流近辺ではあるのだが、実際には丘陵の中の谷戸の一つ、しかも鶴見川の中流にできた谷戸という感じなのだ。鶴見川の一番奥の谷戸を昇り切った所の直ぐ側に相模川と並走する支流の境川が流れておるのを見れば、多摩丘陵の全体がおおよそ理解できよう」
義兵衛が館で描いた丘陵の全体像とさほど違わない感じで爺様も捉えているようだ。
一行の足は左手側の上図師村へ向かっていく。
「見せて頂いた武蔵国絵図とは随分違いますね」
安兵衛さんなりに絵図を見て村の名前と位置を覚えていたようだが、川沿いの道を進んで現れる村の名前を聞くと、並びが随分と違っていることに驚いているようだ。
「せめて村の位置だけでも正確に並べた絵図が欲しい、と言った訳が判りましたか。
もし、この多摩丘陵を背にして戦をせねばならぬのなら、敵兵を丘陵内に引き込み個々に分断して殲滅するのが一番でしょう。大軍同士の野戦は不向きな土地なのです。
攻められた場合は土地勘のある地元の者が断然優位になるのですから、丘陵を城郭に見立てた野戦で敵方を消耗させ続けるのが一番でしょう」
こう口にしながら、義兵衛は突然に閃いた。
『もしかして、家康様が多摩丘陵の村々を旗本の知行地として設定したのは、倒幕軍の侵攻をこの多摩丘陵で防ごうとしたのではないのか。そのために知行地を細かくモザイクのように配置したのではないか』
相模国から武蔵国に攻め込む図式を考えると、戦略的要所にそれなりの旗本が配置されており、有効なゲリラ戦が展開できそうである。
しかも、殿様は江戸詰で知行地には代官というスタイルの旗本は少ないのだが、多摩丘陵は知行地に館を置く旗本がある程度居る。
『そうすると、丘陵の要をどこに置けば良いか、なのだが……』
『なるほど。眺望の良い独立峰の高石か』
義兵衛の頭の中で、勝手に竹森氏が吠えているのが煩いほど聞こえて来る。
「義兵衛、鶴見川沿いには杉山神社というあまり有名ではない神社が多くある。その繋がりを軽く見てはならぬぞ」
後の世でいう神奈川県だが、横浜・川崎地区のいたるところに杉山神社が祭られている。
しかも、大方が鶴見川沿いという不思議を爺様は指摘したのだ。
杉山というよくありそうな名前にもかかわらず、他の地域では杉山神社が見当たらない。
そして、高石神社と杉山神社、その二つの神社の関係には何か意味があるということなのだろうか。
上図師村に着く頃には、義兵衛の頭の中は妄想で一杯になってしまった。
上麻生村、上岡村、小野路村、上図師村と鶴見川。地名と地形がからむ回です。明治時代には合併して柿生村と鶴川村など大きなくくりになってしまい、今では字でしか場所が確認できないのですが、現地に赴いて昔の風景を想像しながら散歩すると、いろいろと妄想してしまいました。
武蔵国絵図の全村が「#れきちず」に反映される完成版を心待ちにしています。




