上麻生村の三井家 <C2561>
弘法松は、津久井往還道のおおよそ中間地点で小高い山の上にある松の古木である。
言い伝えでは『諸国行脚をしていた弘法大師様が寺の建立を断念した代わりとしてこの黒松を植えた』とのことだ。
確かに幹回りといい、大きく育った枝ぶりといい、数百年も生きていることを伺わせる。
そして、今は残念ながら雨天のため視界が確保できないのだが、天候によっては富士山や南アルプスまで一望できる絶景の地ではある。
そんな場所からほんの目と鼻の先に、この先の上麻生村を知行地とする三井家の館がある。
実際の上麻生村集落は、更に6町(約650m)程も坂を下った所にあるのだが、敢えて村落の中心に館を構えていないのは、百姓とは一線を引いておくということだろうか。
門の所で声を掛け案内を乞うと、正門が開き爺様が出てきて一行3人を前に口を開いた。
「細江泰兵衛様、久しぶりでございますな。お待ちしておりましたぞ。
本日は主人不在のため、わたくし家老の関口園十郎が応対致します。また、上麻生村の名主・井上甚七も同席しております」
「急な申し入れでの応接、恐れ入ります。文でも簡単に書き添えましたが、後日、椿井家の若様が周囲の村々を視察なされる予定があり、その折のことを相談致したく伺った次第です。
こちらは里からの土産で、江戸にて売り出し始めている七輪と練炭でございます。御収め下され。
ああ、横に控えておりますのは、最近息子・細江紳一郎の養子に迎え入れた義兵衛と、その供の浜野安兵衛殿です。顔合わせは初で御座いましょうゆえ、顔見せを兼ねて一緒に参りました。今後、色々と世話になるので御見知り置き下され」
「これは丁寧に。ここでの話は何で御座いましょう。お上がりくだされ」
「文にも記したが、安兵衛殿は義兵衛の供ではあるが、実は北町奉行・曲淵甲斐守様の家臣であるゆえ、同席をお許し願いたい」
正式の客なのだが、通常であれば従者は別案内される形になる。
だが、奉行様から同行を命じられている安兵衛さんを外す訳にはいかないので、事前に文に書いて知らせておいたようだ。
そして、ここでも敢えて確認をする。
安兵衛さんは御公儀からの目付相当として認識されたのか、あっさり同席は認められていた。
正式の客として、正門から式台・玄関を通り応接まで通され、その下座に座る。
横に座って平伏しているのが、名主・甚七さんだろう。
少し待っている、家老の園十郎さんが入室し、通常であれば主人・三井恒吉様が座るであろう場所の脇に座った。
「双方とも主不在ゆえ、今日は堅苦しい挨拶は良いであろう。それで、訪問の趣旨を改めて聞かせてもらおう」
園十郎さんは門でのやり取りとは違い、形式を気に留めない方のようだ。
上麻生村の石高670石は、それだけで椿井家4村500石を越え、しかも三井家は1200石取りの旗本である。
格下旗本の家臣からの申し出で面会しているのだから、扱いはもっと軽くても良いはずなのだが、丁重なのには何か理由があるに違いない。
館の爺様は、11月に入ると若君・椿井金吾様が知行地周辺の様子を視察しに回ること、その際に三井家に挨拶したいこと、をまず説明した。
そして、ついでのように義兵衛の紹介を行った。
「この者は、金程村名主・伊藤百太郎の次男坊であるが、里を富ます能力が認められて息子・紳一郎の養子となった。先々は細江紳一郎の跡を継いで金吾様に仕えることを見込んでおるゆえ、こちらに挨拶しておくことも要ると思って連れて参った」
「ほほう、これがあの噂の義兵衛殿か。まだ若いにもかかわらず、椿井殿の借財清算に尽力し、更に木炭加工品を江戸で売り捌いて富を得ておると聞いておる。
ここに居る名主・甚七が『良い機会があれば、義兵衛殿から話を聞きたい』と言っておってな。当家もあやかりたいと話をしておる」
「私は上麻生村・名主の井上甚七と申します。椿井領では今年の年貢を免除し、その分を村々の蔵に飢饉対策用として納めたと聞いております。
どのようにしてそうなったのか、また、上麻生村でも同じようにできないか、を知りたいと常より考えておりました。
工房を代表しておった助太郎殿に聞いても『義兵衛殿が引いた道を進んでおるだけで、秘訣は良く判らん』としか教えてくれぬ。村人で工房に出入りできる木炭の運搬人に聞いても、どうしてこうなるのかはさっぱり見当が付かないので、困っておりました。
良い機会でもあるので、詳しく話を聞かせて下され」
これが狙いだったようだ。
義兵衛は館の爺様の方を向いて問うた。
「爺様、工房内の組織構造や、やっている作業の説明であれば、私でもできます。
また、練炭を作り始めた経緯も話せますが、金程村の年貢の一部を問屋に卸した木炭で得た銭で代用できた訳など説明できません。
御殿様の庇護下で工房が運営されるようになり、江戸に卸した練炭の売り上げが村の年貢の軽減につながっているのですが、この仕組みは、村が問屋に卸した銭を年貢代わりにした事抜きには語れないのです。
椿井家の知行地で普通に行われていることが、実の所は他領ではあまり見かけないことに私は気づくこともありますが、それが全部とは言えません。どう説明したらよいのでしょうか」
「うむ、確かに単純ではないな。
園十郎殿、この場で上面の話を聞かせても良いのだが、どうだろうか。椿井の里から上麻生村に嫁に出た者が幾人も居るであろうから、まずは、そういった者達を集めて村の違いを聞き取りしてはどうであろうか。その上で、今年になってから始めた工房のことを聞いてもよかろう。
また、工房では手が足らぬ所もあり、2~3人であれば働く娘御を預かっても良い。半年も工房で働けば違いも見えてこよう」
寺子屋つながりで成り立っている工房内の班に、敢えて他村の娘を入れようとする意図は何だろうか。
同じことを安兵衛さんも思ったのか、小声で呟くのが聞こえた。
「そうか、難民対策の訓練」
思わず安兵衛さんの顔を見ると、頷き返してきた。
この多摩丘陵で飢饉に伴う騒動が起きるのは、天明4年(浅間山噴火の翌年である1784年)以降で、春先の武州村山騒動の余波を受けての動きと見ている。
不作の3年目だが、ここが飢饉対策の一つの山になりそうな予感はある。
そうすると、他村から労働力として受け入れ可能かの試金石として、丁度良い感じなのかも知れない。
「園十郎様、甚七様。今、金程村の工房でしたら2名程度であれば受け入れ可能と思います。年末までに面談などして人選できるように致しましょう。
それから、我殿様は『4年後から7年もの長きに渡り不作が続き大飢饉になる』という高石神社の巫女の言葉を深く信じ、これに呼応する施策として籾米の買い付けと蓄えを行っております。上麻生村では、飢饉の噂や対応策などお考えなのでしょうか。
この噂は、御公儀にも伝わっており、近々『各村の石高100石につき5石の籾米を村内に蓄え飢饉に備えよ』との触れが出るようにも聞いております」
義兵衛の言葉に園十郎さんと甚七さんは顔を見合わせた。
「うむ、飢饉の噂は確かに聞いておるが、執政の方からそのような触れが出るとは驚きじゃ。それは真かな。
三井家は1200石とは言えさほど裕福ではない旗本故、飢饉への備えをこちらでは持って居らぬ」
「670石ですから村での備蓄米は34石程、米を90俵位も選り分けて別枠として置く必要があるということになるのでしょうか。年貢を出した後でそれだけの準備はできません。村もそれなりに入用があるのです」
どちらが準備するのかで揉めそうな気配が漂う。
「その辺りは、村の中で話し合って頂ければと思います」
義兵衛が口を出すようなことではない。
ただこの様子から考えると、このままではこの村で難民を抑え込むことができそうにないのが伺える。
「場合によっては、椿井家から50石程であれば貸すこともできますぞ」
爺様が口を挟んだ。
敢えて踏み込むのは得策ではないように思えるのだが、何か策でもあるのだろうか。
上麻生村・旗本三井氏を調べている内に、色々な事情が交錯して時間を取られてしまいました。
#れきちず は見ていてかなり面白いです。感想欄で「ニートその3」様、紹介ありがとうございました。




