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領地測量の企て <C2553>

「春さんはまた厳しい例えを持ち出しますね。

 飢饉になり、飢え死にするような人が出るほど酷い状態になると、どんな取り決めをした所で守られることはないでしょう。掟を守って死を選ぶ、ということはまずあり得ないでしょうね。

 各村で飢饉を見越して米を蓄えるようにとの令が公布される見込みですが、巫女様の預言通り5年近くも不作が続くと、備蓄で最後まで抑え込めるのは難しいでしょう。結局は、年貢の減免を求める百姓一揆が、全国で見ると頻発するのではないか、と推測しています。その地域だけの一揆で済めば、まだ良い方です。一揆を起こした村々が食料難で崩壊して、そこに居る百姓達が流民となり多少とも食べる物にゆとりがある村にころがり込むと、その村が素寒貧になるまで居続けることになるでしょう。ころがり込んだ村の人達が今度は流民に加わって彷徨うことになります。

 こうなってしまうと、この連鎖を食い止める手立てがまずありません」


 かくして、不幸は伝播して行くのだ。

 春さんは『恐ろしいことを聞いた』と言わんばかりに怯えた顔になっている。

 義兵衛は死人の肉すら食べることや、母が子を喰らうということも実際に起きることを口にはできなかった。


「幸い、人の往来がある津久井往還道に接しているのは細山村だけですし、中を府中街道が通る下菅村は実の所山間を通る細い道で里の主体となる細山村・金程村とは隔てられているため、実際に大量の難民が工房の近辺に流入する恐れは小さいと思っています。

 なので、里は飢饉の外に居られることができ、大丈夫と見ています」


 義兵衛の説明に春さんと米さんは納得しかけたが、そこに安兵衛さんが割り込んだ。


「義兵衛様、この里の弱点は万福寺村ではありませんか。旗本の椿井家と天野家で、おおよそ年貢を折半する相給の村ですよね。椿井家が飢饉対策をして防御しますが、村への統制が半分しか利いておらず、また津久井往還道にも近いため、そこから崩れませんか」


 登戸から来ると細山村が表門に相当する入り口であるが、万福寺村と接している古沢村は、裏口に相当する場所であり、鶴川方面から椿井領に用がある場合に利用する所でもある。

 練炭を作るようになってから、原料となる木炭を黒川村や相州方面から調達しているため、この裏口にあたる万福寺側入り口の利用頻度は以前に比べると格段に増えている。

 鶴川の支流である麻生川沿いの道も、泥田に沿った細い畝道であったものが、雨天でなければ荷駄が通るのに支障がないレベルまで整備されてきた。

 高石村から泥田を避ける様に高台にあるランドマーク・弘法の松へ緩やかに登っていく津久井往還道なのだが、麻生川に沿って万福寺村までの荷駄道が使えるとなると、後の備えは万福寺村から高石村間の谷戸と泥田だけの道となる。

 ここが整備されてしまえば、上麻生村から高台である王禅寺村を経由しなくても高石村につながるようになる。

 もっとも、高石村と万福寺村の境界が五反田川と麻生川の分水嶺なので、登戸から鶴川方面に向かう分には高石村から王禅寺村の境界である弘法の松へ向かうのはごく自然な流れであり、その逆となる上麻生村から一度高台の王禅寺村を経由して高石村に行くのは登坂のためこれを避け、古沢村から万福寺村を経由して高石村に入るのが自然と見える。


「なるほど。地元であるがゆえに不自然とも思っていなかったのだが、安兵衛さんから見るとそう感じるのか。

 御殿様から『金吾様と一緒に里の境界を見て廻れ』と江戸屋敷に居る折に下知されていたのだが、そういう意味もあったのか。いずれにしても、正確な地形図と境界図を整備しておかないと色々と説明が難しいなぁ」


 まだ概念的な村の絵図しかない時代なのだ。

 その絵図たるや、おおよそ名主家を中心とした長方形の枠を書き、そこに接する隣村の名前、主要道、川や用水路、山頂がそれらしい方角に描かれている図である。

 同様の図で、村の中についての別図は、田畑や家屋の所有者を明らかにするため、まだ実地形に近いが、こちらも基準となる道・水路がデフォルメされているため、正確とは言い難い。

 それでも村の中では、こういった地形の境界情報が関係者間で共有されているため、済まされる面もあるのだが、いざよそ者から村を守るとなると、実際に即した地形図が必要となる。


「この里で、きちんとした地形図を作ってみませんか」


「いや、しかし、ここに居る面々では手も足も出まい。金程村だけでなく領地は総出で木炭作り、練炭作りに励んでおるゆえ、大人達も手が空いている訳でもない。

 そうか。測量なら、確か専門家が江戸に居る。御公儀の天文方を頼ってみるのも良いかも知れない」


 後に日本全図を産み出す伊能忠敬が師事した天文方のことを思い出した。

 ただ、日食が外れたことをトリガとする暦の改定が主な役目で、地図作りは主業務ではない。

 変な話だが、日本全図ですら『地球の周の距離を知りたい』という伊能忠敬の旺盛な知識欲から始まった事業の余波に過ぎない。

 結果として緯度が離れている江戸と蝦夷地の距離を測ろうとしたことで、経路の測量を行い、それらの数値をもとに地図が作れたのだ。

 なお、この最初の測量は伊能忠敬の自費で行われているので、お上が許可を出したにせよ国の事業と言える代物ではない。

 だがともかく、天文方にはこういった作業を実施するための知識がある程度備わっていることに間違いはなかろう。


「天文方を頼る、ですか。あそこは空ばかり見て何の役にもたたない無駄な役所ですよ。実際に何も産み出していません。

 空を見る器具なら色々揃えていたように思いますが、この村に来てもらえる程の利点はないように思えます。さらに敢えて言えば、費用はどうなさるのでしょう」


「義兵衛様、今この工房には余計なお金は全くありません。原料である木炭を買い付けるのに精一杯なのですよ」


 春さんが悲鳴のような声が響いた。


「うむ、済まない。ただ、やはり正確な地形図は欲しいのだ。

 基本的な測量のやり方は判るので、それなりの道具を作り、試す位のことは出来るかも知れない。そうさな。まずはこの工房と館の間で正確な直線距離を手隙てすきな時に測ってみようか。

 それでもまずは三角関数表を入手しないと先には行けない感じかなぁ。大工さんなら知っているかも知れないが、聞きやすい助太郎がここにいないのは残念だなぁ。しかし、もし無いのであれば、まずは実測して関数表を作るところから始めるしかないか」


「あれ、三角関数表とは何でしょうか。何か面白そうな響きの言葉ですね」


 なにやら数字にかかわるものであることを感じ取ったのか、春さんが声を上げた。

『おいおい、これは高校生になってから習う数学だぞ。まだ小学校中学年で算数を習っている歳の春さんが理解できる代物ではなかろうに』

 確かに、この三角関数が出て来るあたりから数学に躓く人も多い。

 ただ測量となると、角度を扱う関係で避けて通れないのも確かだ。


「測量をする時に欠かせない表になる。普通の人にとっては、理屈はともかく、使い方・やり方だけ判れば良いのだから、便利な表とも言えるかもしれないな」


 横に居る安兵衛さんが早速矢立を取り出していた。


「義兵衛様に手隙な時なぞ御座いません。今しなければならないのは、華様を迎える準備でしょう。余計なことを始めないでください。

 春、興味があるのは判るけど、まずはちゃんと自分の仕事を終わらせてからね」


 米さんからの突っ込みに、春さんは残念そうな表情を浮かべて俯いた。

 毎日が出来高数字とのにらめっこを強いられる春さんの仕事は、他に代われる人もなく、根本的にルーチンを大きく見直すことでもないと仕事を終わらせることができない性質のもので、米さんの宣告は新たなことに手出しできないことを宣告したようなものだった。


『ひょっとすると、惜しい人材かもしれんなぁ。三角関数に興味がある人は結構少ないからなぁ』


「まあ、実際の測量ということになれば、多少の手伝いをお願いすることになるかも知れないので、その折にでも説明する位のことはできような。それまでは、きちんと自分の仕事をして、できれば効率的に済ませて手隙の時間がとれるようにしておけば良い。

 測量の件は、まずは館の爺様に相談してからかな」


 義兵衛の声に、春さんは顔を上げると目を大きく開いてパッと表情を輝かせた。


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