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江戸に戻る可能性 <C2549>

 こうなってしまうと安兵衛さんが何か言い出すのを待つしかなかった。

 深い沈黙がこの場を覆い、米さんを除く皆の目は、全く表情が抜け落ちている安兵衛さんに向けられ、それでも誰も声を出さない。

 暫くすると安兵衛さんに表情が戻り、そして皺枯れ声で言葉が発せられた。


「米さんを迎えるのであれば、妾という訳にはいかないでしょう。実際にそれだけの実績を積んでおられる。また、私のために工房の業務がおろそかになるようであれば、誰のためにもなりません。

 だが、どうすれば良いのか、どのように殿(曲淵景次様)に報告し内諾を得れば良いのか、私には全く見当がつきません」


 再び沈黙が場を支配したが、義兵衛はある案を思いつき口にした。


「米さんを紳一郎様の養女にできませんかね。その上で、御殿様から御奉行様に申し入れするとか。

 そうすれば、一応名目上身分の差は無くなる。この方法なら、なんとかできるかも知れない」


「米さん、金吾様(庚太郎様の嫡男)が寺子屋に居る時の世話役は誰だったか判るか。その筋からの悪評が無ければ、御殿様の心証はどうということもあるまいし、手を回して頂くこともできるかもしれない。御家老様の養女にするには、御殿様の指図か、あるいは領地のことを考えての采配という形が必要だと思う」


 助太郎が寺子屋繋がりを重視する意見を出したが、悪手ではないかと考え義兵衛は遮った。


「いや、今更であろう。米さんが工房運営の要であることは見ていて判る。金吾様経由でどうこうする必要はないし、御殿様の御気性なら迂遠なことをすると却って心証を害するかも知れない。

 この縁が椿井家にとって、御奉行様にとって、ひいては御公儀にとってどう利があるのかを理解して頂くという視点で押さえていくのが先であろう。助太郎と梅さんが江戸に行く前にこの話が出てよかった。工房のことについては、助太郎に下問が行くだろうから、そこでの返答と齟齬がないことが肝心だからな」


「いえ、例え細江様の養女であっても、いや、そのもう一段上の御殿様の養女として扱ってもらったとしても、曲淵様の許しがなければ、結局のところどうにもならないと思うのですがどうでしょう。むしろ、先に安兵衛さんが曲淵様に説明をして了解を頂かねばならないと思うのですが」


 こんなことにはまだまだうといはずとも思える春さんが正論を述べた。

 要は、安兵衛さんが確固とした意思を持ち『どうしても』という覚悟で御奉行様と直談判しないと成就は難しいように思える。


「ただ、義兵衛様がこの里の外には出ることが出来ないとなると、私もずっとここに居るしかありません。そうすると、殿(曲淵様)を説得しきれないでしょう。文だけでは難しいことですから、今のままではどうしようもありません。

 百姓家ではどうか判りませんが、武家の婚姻は家同士を結び付けることが主体なのです。それは、家の後ろ盾を得るためといったことや子孫を絶やさぬようにするため、といった要素があるのです。血筋を維持するのは存外大変なのです。

 まあ、殿様でもない限り跡目についてはそんなに厳しいものではありませんがね。現に私は浜野家の当主ではありますが、この立場で何のとがもなく、例えば義兵衛様の身代わりとして死んでしまえば、殿はおそらく私の縁戚から誰かを連れて来て浜野家を継がせることをするでしょう。それが一番の褒美になるのですから。

 とは言え、早く自分自身の血族を作ることは奨励されていると思っています。5年後には24歳になりますが、この年では少し遅いかも知れません」


 安兵衛さんの弁は、武家としての立場の説明に終始していて、肝心の米さんについてどう考えるのかは触れてくれていない。

 周りを見ると、同様の感想を持っているのか、一様にムッとした様子である。


「安兵衛様。今もし江戸に出ることができれば、米さんを内儀とする承諾を御奉行様から貰えるように説得するつもりはございますか。

 もし、そうであるなら、御殿様より上の立場の方から一時的にしても義兵衛様を江戸に召してもらえば良いのです。例えば勘定奉行様は御殿様の上役でございましょう」


 弥生さんが良いことを思いついた、といった顔で安兵衛さんを見つめて云い放った。

 さすがに梅さんの後継として目されるだけのことはあり、どうすれば人が動けるのかを見抜いているあたりは流石だ。

 ただ、安兵衛さんはげんなりとした顔を義兵衛に向けた。


「義兵衛様が御奉行様方に呼び出されて江戸に行かねばならない、となれば私も同行することは間違いありません。ただ、そんなことが起きるとなると、私事わたくしごとなんかかまっている暇はなく、江戸で奔走することになります。勘定奉行様からの聞き取りだけであればまだしも、御老中様と御殿様が同席する場に呼び出されるようなことになったら、実の所もう何をしているのか、訳の判らないことになるのです。義兵衛様が、奉行所の土蔵がお好きというのであればそれでも構いませんが、訳有人が押し込められる場所に長居はしたく無いですね」


 安兵衛さんに迷惑をかけるつもりもないが、安兵衛さんが奔走しなければならないのは、上司である曲淵様の勝手である。

 義兵衛の発言や講堂の背景を知りたいということで安兵衛さんを使っているのだとすれば、安兵衛さんは殿への報告で終わらせてしまえるのだが、手に負えないと判るとそこから関係する部署に連絡が行き、不足する情報を得ようとして安兵衛さんが連れ回されるのだ。

 安兵衛さんの説明で埒が明かない場合は、御殿様に断わりを入れて義兵衛が呼び出されることになる。

 もちろん相手によっては、御殿様も巻き込まれる場合があり、後で大層叱られるというのがお決まりのルートとして常態化していた。

 今回の禁足処置は『江戸でもう余計なことを起こしてくれるな』ということの現れであり、里に居る義兵衛がその配慮を無視するような行動を起こす訳にはいかない。


「弥生さん。今回自分を里に留め置こうという御殿様の意向を、あえて自分から無にするような訳にはいきません。

 ただ、5年もの長い期間です。江戸で何かしら問題が起き、意見が必要となって私が呼ばれるということは有り得ます。浅間山が噴火するまでには大凶作となる年もあります。

 実の所、御老中様からの指図があって、御殿様からすぐ呼ばれるような気もするのですよ」


 ちょっと考えただけでも、火種は沢山ある。


「確かに、掃いて捨てるほど江戸に呼びつけられる種はありますね。

 武家側料理比べ興行で、椿井家で今年色々と起こった変化の原因の話になると、まず間違いなく義兵衛様にたどり着きます。誰かがうっかりその名前を出してしまうと、上の方は顔を見たくなるに違いありません。なにしろ義兵衛様はその場にいないのですからね。

 おそらく、そこに控えている萬屋や八百膳の方々には口にしないよう厳命されているでしょうが、料理を提供する仕出し膳の亭主たちにまで厳命すると、かえって話題になりやすいのでしていないでしょう。

 今月の20日過ぎに急使が来るかどうか。まずは、そこが最初でしょう。

 次の機会は、義兵衛様の婚儀の件でしょうか。11月に華さんがこの里に来て、下旬には婚儀の運びでしょう。いつの間にか里で目立たぬように、という御殿様の配慮なのでしょうが、これが表沙汰になると、これを機に義兵衛様との縁を得たいと考える方々がある程度いると思われます。皆が里に押し寄せるのを御殿様は良しとしないでしょうから、何らかの対策を取ると思われます。上の方々への一番簡単な方法は『後日江戸にて御挨拶させます』ということになりますので、華さんが実家へ挨拶に戻る時に同行させる、というのが考えられます。

 そういった折であれば、私もゆとりがありそうですね」


 安兵衛さんは火種以外のことを最初に述べてくれたのだが、実の所政治的な要素で呼び出されることもあり得るのだ。

 特に、対露関係で松前藩を来年に向けて指導しておく必要もあるので、意見を求められる可能性がある。

 更に、来年はイギリスの探検家・ジェームズクックが日本東海上を航行し、その後ハワイにて没する年にあたる。

 御老中様が押さえた巫女からこの事実と、向後の歴史の流れを聞いていれば、対英関係をどうにかするきっかけにできることに気づくに違いない、実に面白い時期なのだ。


「まあ、こちらから言うことではないので、それまでは待機です。

 米さん。安兵衛さんが江戸に戻るまで辛抱できますよね」


 いつになるか、までは言えないが、今の時点ではこれで納得してもらうしかなかった。


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