勝次郎様への緊急帰還令 <C2546>
■安永7年(1778年)10月4日~7日(太陽暦11月22日~25日) 憑依263~266日目 晴、曇、晴、晴
昨夕には爺の申し付け通り館へ戻った義兵衛だったが、家臣達の宴会が続いており、正直居心地の良いものではなかった。
そこで、工房の引継ぎを口実に工房での寝泊りを申し出ると、実にあっさりと承認された。
ただし、毎朝連絡受領と報告を館で行うことだけは義務付けられたのだが、工房から練炭を送り出す荷駄と同行すれば良いだけなので難しくはない。
朝の勤めさえ終われば、工房事務棟奥の実験場で助太郎と色々試し放題なのだ。
いつも同行している安兵衛さんと勝次郎様は最初はあきれながら実験場で見学していたのだが、そのうち飽きたのか事務棟の中で行われている管理の様子を見に行くようになった。
そこでの様子なのだが『米さんは上機嫌な一方、梅さんの機嫌がどんどん悪くなっている』と安兵衛さんがいう。
梅さんが直属として鍛えている弥生さんに結構厳しくあたっているようだ。
「木野子村で鍛えられたのだろうが、弥生さんはけっこうはっきり物を言う。女同士の諍いはうっかり口を挟むとどんなとばっちりが来るか判らん。米さんが見ているのであれば、それに任せていればよかろう」
度を過ぎるようであれば、米さんから話を聞いて対応せねばならんのだが、まだそういった事態にはなっていないようだ。
こうした中、7日には金程村の蔵改めが行われ、館の爺が工房を覗いていった。
工房では特に歓待する訳でもなく、また爺も『重畳、励め』とのお言葉だけで済ましている。
練炭や小炭団が積み上がっている倉庫を満足そうに眺めているのが印象的で、村の蔵を検分した後の名主家での歓待のおりでもすこぶる満足した様子であった。
■安永7年(1778年)10月8日(太陽暦11月26日) 憑依267日目 晴
朝の定期連絡の時点では何もなく、このままでは助太郎が江戸へ出立する明後日(10日)までは何も起きないだろうと思われていた所に館から『北町奉行所より勝次郎様あて至急の文』が届けられた。
要は『勝次郎のみ至急奉行所へ戻れ』との指示なのだが、背景や安兵衛さんの扱いについての言及はない。
ただ至急ということなので、連絡を受け取った時点で直ちに勝次郎様は工房を離れた。
館への挨拶もせず、まずは最短で登戸へ出る算段のため、南側の万福寺村を経由し高石村で津久井往還道へ出る経路を選択する。
一方、勝次郎様の出立後、義兵衛は事情を確認するため館へ向かった。
「爺様、勝次郎様は奉行所へ向け先ほど出立しました。至急という指示でしたので、『こちらへの挨拶も出来ず申し訳ない』と申しておりました。ところで、事情などこちらで何か判りませんでしょうか」
「いや、こちらでも何も聞いておらぬ。奉行所の者が順次取り次いで持ってきた文での連絡ゆえ、江戸屋敷はかかわっておらぬ。それもあって、何が起きたのかの事情を聞くこともできんかった。いずれ何があったのかを含め殿より指図もあろうゆえ、それまでは普段通りにしておればよい。今勝手に動くと碌なことにならん」
登戸には奉行所の拠点ができているという話をついこの間聞かされたばかりである。
おそらく奉行所が仕切る複数の拠点をリレーして最速で届けられたのだろう。
そのため、一切が謎のままなのだ。
「安兵衛さん、何か心当たりはありますか」
「いや、さっぱり判らないことです。緊急ということで、いくつかの拠点を経て文を届けるだけなら、奉行所から指図が出たのは夜明け前でしょうか。勝次郎様の足であれば、夕刻前には奉行所につきましょう。
そうすると何らかの連絡は頂けるでしょうから、明日の昼頃には何かしらの詳細も伝わってくるでしょう。それまでは待機です。ただ、いつどんな指図があるか判らないので、江戸に戻る準備も進めておくのが良いかと」
明後日に助太郎が江戸に行く段取りでいろいろ進めているが、一緒に江戸へ戻ることもあり得ると考えた。
「いずれにせよ、ここに居っても仕方ない。工房に戻って起こり得る事態を相談しておくのが良いだろう」
このところ三人で並んで歩くのが常となっていたせいか、安兵衛さんと二人で歩くのは少し調子が狂う。
「何か判りましたか」
工房の事務棟に入ると米さんが問うてくるが、返す言葉がない。
「安兵衛様ではなく、勝次郎様だけの帰還ということであれば奉行所内の事情ではないかと思うのだが」
助太郎が推測を述べる。
義兵衛が里から出さない判断を殿様がしている中、工房からみの何かが江戸であるのなら、より実態を把握している安兵衛さんが呼び出されるのが道理、と説明する。
なるほど、館の爺が『勝手に動くな』と言ったのも、奉行所内のことと見ていたと考えるならば道理である。
「ただ、勝次郎様が江戸でどういった状況に置かれるかによって工房への影響が出る可能性もある。義兵衛への禁足処置も上からの意向によって解かれる可能性もあろう。工房としては、自分と義兵衛が不在でも、きちんと回していく必要があるだろう。
自分が佐倉へ行っている間も問題なく工房は回せていたのだから、どうということもあるまい」
「いえ、それはいつ戻るかも目途があったからこそ凌げたということもあります。義兵衛様が江戸へ向かうのであれば、助太郎様は工房へ戻してもらわねばなりません。御不在の時に限って運営に口を出してくる大人達が居るのです」
梅さんが工房への圧力があることをほのめかす。
運営陣を増やすという動きの中には、工房外からの圧力を跳ね返す義兵衛や助太郎の代わりを務める者、ということも必要なようだ。
「最初からかかわっている百太郎さんに居てもらうというのはどうだろうか。丁度隠居したばかりだし」
「いや、その方が一番危ないのです。いろいろな段取りを御破算にしてしまうような話を平気で持ち込むのですよ」
助太郎の案に春さんが突っ込む。
運営の要である数字を握っている春さんが言うことだけに真剣さが伝わってくる。
我が父のことながら、確かに危なっかしく実権は渡せない。
「ならば、助太郎の父・彦左衛門さんを引き込むのはどうかな。この工房の拡張や寮の運営にからんでいるだろう。外からの干渉を防ぐには丁度いい立場に見えるのだが」
「いや、仲間内ならともかく、御館がからむとからっきし駄目になる」
村で唯一の大工として裏方を一手に仕切っているのだが、実のところ押しに弱いのはここにいる皆が知っている。
そうでなくともこのところの建築ラッシュでいろいろと断り切れずに押し込まれているのだ。
相手からすると腕がいい善人でしかなく、ころっと騙されることも多いと聞く。
「そこは、女将さんにきちんと言い含めておけばなんとかなるだろう。実質的には米さんか梅さんがしっかり念押ししておけば今まで通りに工房が運営できると思うのだが」
夫婦セットで代表の代理をしてもらう方向で、なんとか渋る助太郎を説得した。
あとは押しに弱い彦左衛門さんのことだから承知するに違いない。
「江戸でのことだが、もし義兵衛と一緒に行くことになればとても心強い。時限を区切ってでも江戸で関係する方々を紹介してもらえるような状況にならないかな」
「いや、それは期待しないほうが良いだろう。殿様の意向をはねのけてまで江戸に出なければならないということだとすると、悠長なことをしている間はないだろう。もし誰かの支えがあった方が良いのであれば、安兵衛さんを一緒に連れていけるのが一番良いのだが、流石にその選択はこちらではできないだろう」
梅さんがやたらと弾む声で口を挟んだ。
「それなら、私が御供しましょうか。いや、させてください。私が不在の工房は弥生さんが仕切ればこと足りますし、きっと助太郎様の力になれると思いますよ。そうですね、萬屋のお婆様のところに弟子入りすれば、助太郎様が事情を把握する役に立てます」
助太郎の江戸での役目は、主に萬屋対応となる。
義兵衛は江戸屋敷の経理にかかわる前に、萬屋で町屋の帳簿を見させてもらい、勉強したことを思い出した。
そういった所で得た知識は、工房の運営や他領での立ち上げにも使える知識として、助太郎等工房の運営を行う面々にも伝えているが、今更助太郎自身が萬屋の帳簿を学ぶ時間があるとは思えない。
むしろ、梅さんのような者が萬屋に食い込むほうが良いように思える。
ただ、身分的にはどうだか、ただの村娘なのだ。
「いや、萬屋にも女衆は居り、それを飛び越えて弟子入りして親しく教えを乞うというのは、工房で作業をしていた梅さんという立場では難しかろう」
「では、助太郎様の女房という立場でしたらどうでしょう」
顔を一段と輝かせて梅さんが堂々と言い切った。




