一応運搬終了 <C2544>
館の庭に一角に真新しい蔵があり、その入り口で荷駄隊から米俵が降ろされ奥に運ばれている。
運び込まれたのは全部で10俵、義兵衛はこれが最後の1俵となるよう499俵が既に入っていると聞かされていたので『あれっ』と思ったのだが、そこは白井与忽右衛門さんが抜け目なく調整していたようで、10俵が蔵に入ると同時に帳面に出入りを記載していた家臣が声を上げた。
「これで500俵、きちんと納められました」
これは毎年年貢米を納める時に聞く声で、その場に居合わせた者達は一斉に『おう』と応え喝采するのが決まりのようになっている。
ただ、今回の俵数は年貢米に比べると桁違いに多い。
そして運び終えた者だけでなく、村々から集まった者達もいる中ため、『おう』の掛け声と喝采はかなり大きいものとなった。
「皆の衆、御苦労。これより皆に餅を配るゆえ、並ばれよ。それぞれの村の衆で事前に申し付けた者以外は、餅を受け取ったらそのまま帰ってよいぞ。この場に不在の者の分は名主に持たせるゆえ、焦らんでもよい」
祭りという訳ではないので、単に手伝っただけの者などはこの場に残る必要はない。
運搬の責任者と、普段から御役をしている家臣達だけが爺・泰兵衛様に従って館の広間について行く。
義兵衛も予め声を掛けられており、安兵衛さんと勝次郎様を連れて広間に入る。
助太郎は新参の家臣であり、また工房の代表として呼ばれているが、米さんや梅さんは工房の面々を引き連れて戻ったようだった。
工房は午後休とは言っていたが、あの様子では息つく暇もなく生産に移るのだろう。
広間では、一応家臣達が前に、各村の代表である名主が廊下側の場所と固まって座っている。
義兵衛と助太郎は新参として家臣の中では一番後ろに、そして供である安兵衛さんと勝次郎様は横にはみ出して座った。
特段言われている訳ではないが、席順なんかは慣例で決まっているようだ。
ただ、今回は伊藤孝太郎と白井喜之助が加わったことで百姓側の席次でざわついている。
だが、孝太郎と喜之助は名主席の後ろ、半分廊下にはみ出した場所に着座することで決着したようだ。
「この度の買い入れ運搬、やっと無事に収納が終わった。まだ後始末のため出張っておる者も居るが、その面々には個別に伝える。白井と伊藤の蔵の改めは、ドタバタしている今日・明日ではなく明後日でもよかろう。
さて、殿よりの沙汰を伝える」
いつの間にか座敷の上座に現れた爺様が声を上げると皆たちまちに静まり、爺の言葉を一言たりとも聞き逃すまいと一様に深く頭を下げ畏まった。
爺から伝えられたのは、まずは家臣への労いであった。
具体的には『今年分の禄について、半知借り上げはせず全額を支給すること、昨年の借り上げ分の返却をもって家臣からの今までの椿井家への借財を帳消しすること』である。
ついで、百姓達へ年貢米についての減免を示した。
「殿は、金程での工房に早くから注目しており『各村からここへの助力を引き続き願う』と命じておる。皆の助力で今回のような成果が引き続き得られるならば、来年も禄の満額支給や年貢減免が行われるのではないかと思う。
なおこの事業について関係する人事異動がある。
江戸詰めであった細江義兵衛は領内勤めとし工房差配を行え。代わりに宮田助太郎を江戸詰めとする。期日は10日を目途に行え。
金程村の名主、伊藤百太郎は隠居し、嫡男・孝太郎を新たに名主とする。また、細山村の名主、白井与忽右衛門は隠居を認め、嫡男・喜之助を新たに名主とすることを認める。なお、白井与忽右衛門は引き続き領内の名主取りまとめを行う相談役とする。こちらについては、即日の実施じゃ」
百太郎は明らかに懲罰と判り、与忽右衛門は申請を認め相談役とすることで褒賞していることが判る。
早速に座敷の下座では席替えが行われたことで、公式に認められたものとなった。
「以上で終わりじゃ。後は身内での宴としようぞ。義兵衛と助太郎は残らんでもよい。名主の寄り合いもあるじゃろうゆえ、そちらへ行け。ただし日没には両名とも館へ出向くように」
館の爺様の声でこの場は解散となり、名主達は白井家に向かった。
「義兵衛様は家臣側なので、あの場に残ってもよかったのではないですか」
「いや、工房には武家の子弟も働いております。今日の出迎えでは上段に招かれてもおかしくない立場の者も3人居りましたが、百姓の子等に混ざったままにしていたでしょう。工房は名目上でも椿井家の庇護下という位置づけにしたので、百姓でもなく武家でもないその中間という扱いにするしかなかったのかな、と思います」
安兵衛さんの疑問に助太郎がこう答えた。
「しかし、10日後には江戸勤めとは。役目を交代することになるのだけど、萬屋対応とは、これまた厄介なことを。ここで炭や土を相手にしていたのとは訳が違うから、どうすれば良いのかさっぱり見当がつきません」
助太郎は困り果てている。
「細かい話は工房に戻ってからにしよう。実のところあまり時間はない」
白井家の座敷では、最初は爺様の言葉の解釈や今後の在り方について真面目に話合いをしていたが、話の中心が孝太郎と喜之助の嫁取りに及ぶに至って冗談や冷やかしなどが多く中身の薄い状況になってきた。
義兵衛は断わりを入れて工房に向かう旨を告げると、与忽右衛門さんはこれを承知した。
義兵衛、助太郎、安兵衛さん、勝次郎様の4人は白井家を出て工房へ向かって急ぐが、どうしても話をしてしまう。
「孝太郎さんと喜之助さんが直ぐにも嫁取りとは驚きました。今年はなんとか平年並みの作柄だったので村に大きな変化はないと思っていたのですが、木炭加工で豊になるということの影響がこんなに直ぐ出るというのは驚きです」
助太郎の率直な意見に義兵衛は頷いた。
「作柄と嫁取りは、つながっているものなのですか」
勝次郎様が質問してくる。
「まずは生きること、生き延びる環境が最優先なのですよ。それが保証された上で人としての営みがあり、不安を感じることがないように行動できるものなのです。安全である環境が満たされると、所属する集団の中での位置を認めてもらいたい欲求が出てきます。何らかの役割を求めるということや集団の役に立つ実感を求めるという感じでしょうか。
椿井家の家臣の皆さんはおそらくこの段階に居り、そうすると他者から認められたいと思うようになります。それが満足されるようになると、自己実現、つまり自分の能力を発揮し人として成長し続けたいと考えるようになります」
義兵衛は竹森氏から聞いた『マズローの欲求5段階説』を思い出しながら話す。
「生理的欲求、安全欲求が満足されたとき、すなわち安定して生活できるようになった時に、嫁取りという社会的地位を獲得する方向に動けるという解釈でどうでしょう。
もっと極端に言えば、飢饉のときに嫁取りをして一家を立ち上げる百姓はおりません。ゆとりができた時にやっと嫁取りに思い至るのです」
「その分だと、製造に追われる工房は、まずは生理的欲求が満たされていませんなぁ」
『あれ、なにか間違っている。確か、生理的欲求の中に睡眠欲や食欲といったもの以外に性欲があったはず。嫁取りが性欲とある面等価でないのは何か変だぞ』
突然義兵衛の頭の中で竹森氏が話しかけてきた。
「あっ、すみません。さっきの説・解釈は間違っているかも知れないですね。どうもはっきりしないことを深く考えもせず言ってしまったようです。
ただ、いずれにせよ村々が豊かになった今だからこそ嫁取りの話で賑わうのでしょう」
あわてて義兵衛が話を訂正する内に一行は工房に辿り着いた。




