生産変更と米到着前哨戦 <C2537>
■安永7年(1778年)10月2日(太陽暦11月20日) 憑依261日目 晴(陰晴)
義兵衛達はそのまま事務棟に泊まり、工房の周囲が明るくなる前に起き出した。
比較的近くにある寮のごそごそと人が動く気配が伝わってくる。
これから日の出の頃には朝餉が出され、そこから皆作業棟に移って生産作業が始まる。
しばらくすると、寺子屋に通う年齢の子供等は作業から抜けていく。
以前は細江村の館近くに併設されていた寺子屋も、工房での便宜を図るため工房の直ぐ側に場所を移している。
寺子屋での勉強が終わる昼頃に寮へ一度戻り、昼餉を頂いてから作業棟に行き日が暮れる寸前まで生産作業に従事する。
この繰り返しがもう半年以上続いているので、慣れたもののようだ。
例外は秋祭りの時と御殿様が里へ戻った時で、この時に希望者は寮から実家へ戻り一泊させるようにした。
しかし、今回は里の一大行事ではあるが、作業に支障が出ないようにするため里帰りはなしとされている。
今日と明日の午前は通常通りの作業と寺子屋での学習が行われ、明日午後の作業は取りやめとし、館から米飯が振舞われる予定なのだ。
米さんと春さんは朝食前であるにもかかわらず事務棟に顔を出した。
「作業棟の配置変えは済ませており、今朝は段取りを確認する準備のため早めに出ております。
皆様の朝食は助太郎様の母屋に準備しておりますので、早い内にお越しください。遅れると、作業員の朝餉と重なりますので、できれば避けて頂きたいです」
どうやら二人は簡単な朝食は済ませてから点検をしていたようだ。
「春さん、原料となる粉炭の具合はどうなっているのかな」
「はい、明後日・日没までの小炭団生産分はあることを確認できました。練炭の生産が3分の2になるので、こちらも4日間生産できる量があることになります。練炭の粉炭を小炭団向けに転用する必要がなくなったのは、嬉しいことです。
ただ、明後日には粉炭作りを始めてもらわないと困りますので、今回の米運びで駆り出された面々が浮かれないように、どこかで注意頂きたいですね」
流石に春さんから直接言うのは憚られるから、ここは助太郎の手を借りるしかないだろう。
それにしても、しっかりしている。
義兵衛達は米さんの勧めに従い母屋で朝餉を取った。
周りが明るくなり始めた頃に、母屋の土間に作業する面々が集まり、朝餉を取っている様子が伝わってくる。
「義兵衛様、ちょっと煩くて申し訳ありませんね。娘達は明日午後の祭りのことで、少し浮かれているのです。義兵衛様はごゆっくりお過ごしください」
「いえ、こちらこそ突然のことで迷惑をかけます」
土間との仕切りから顔を出した助太郎の母・寮母さんは丁寧に頭を下げると顔を引っ込めた。
『さあ、みんな浮かれていないで。今日・明日は寺子屋が休みなんだろう。その分仕事に励んでおくれ。明日の午後になれば、作業もないのだろ。そこで存分に息抜きすればいい』
『わっ』と一際大きい歓声が上がると、食事を終えた面々が土間を出て行く様子が伝わってくる。
明日の午後については、義兵衛が思った以上に大袈裟なことになっているようだ。
「村のおなご衆も炊き出しに出ているのだが、そういった者達を含めての慰労会という訳か。館の爺様は、賃金を払うのではなく慰労会で報いるという恰好にしたのだな。もしそれだけで済ませるとすれば、難儀なことになるかも知れんな」
「いえ、義兵衛様。今回、年貢をかなり免除されておりますでしょう。武家様方が直接消費する米以外は村の物にして良いと触れを出しております。
その上、細山村と金程村に新しく設けた蔵に500俵の籾米が納まるのでしょう。しかも、この500俵は飢饉に備えたもの、つまり村人が使う米ということになりましょう。労力に充分報いていると、皆思っているに違いありません」
安兵衛さんが義兵衛の懸念を吹き飛ばすように明るい声で応えた。
短期ではなく長期で考えると間違いではない。
「それもそうか。
では、これから作業棟の状況を見てから生産見込みを確かめよう」
作業棟では、米さんと梅さんが小炭団を作る班に付きっ切りで生産の指導をしていた。
義兵衛はそれを遠目に見てから邪魔をせぬように黙って生産棟を出て、事務棟に向かった。
事務棟では春さんが難しい顔をしているので訳を聞いてみた。
「小炭団の生産ですが、立ち上がりが良くないようです。粉炭の品質を確認している者を回して入れ替えたのですが、勝手が違うようで、米さんと梅さんが指導してなんとかしようとしていますが……」
簡単にはいかないと判っていても、実際に目にすると困ってしまう。
「まあ、そこは最初から指導していた米さん達だから、なんとかするだろう」
「いえ、ただどの程度作れるかの見込みが狂ってしまっています。その数字が知りたくてこちらに来られたと思ったのですが」
なかなか聡い娘である。
「どうせ明後日でないと確度の高い数字は出ないのだろうから、今気にすることはない。燃焼時間の揃った小炭団が出来る様にすることのほうが余程重要なのだから。それより、途切れなく生産できるように木炭の手配をしっかりしておいてほしい」
こういった会話をするうちに、助太郎が飛び込んできた。
「義兵衛、お館の爺様はかなり怒っているぞ。深夜、登戸まで足を延ばしてみたらすでに義兵衛はおらず、言い訳をする萬屋の番頭を叱り飛ばしていた。そして『この忙しい時に伊藤親子は揃いも揃って言うことを聞かぬ』と江戸の殿様にお伺いの文を出した、とのことだ。
そういった事情を教えてくれたのは、つい先ほど到着した登戸からの伝令で『今日午後は館で米と到着を待つように』とのことだ。
何があったかは知らんが、この指示にだけは従ったほうが良いと思うぞ」
義兵衛は昼前に到着するであろう米の初荷を積んだ馬列を、高石村の中で津久井道が細山村へ分岐する地点・細山神明社の5町(500m)手前(現:高石歩道橋近辺の旧道交差点)で待ち受けて合流し、それから細山村入りしようと目論んでいたのだが、どうやらそれはできないようだ。
観念した義兵衛は、工房の作業をどう組み換えしようとしたかの状況を助太郎に説明し、米を運び終わった後に気を抜かぬよう充分に事前注意をしておくことなども指摘した上、詳細は米さんに聞くよう伝え、細山村の館へ向かった。
「今更ですが、せめて登戸で待つべきだったのでは」
勝次郎様の意見に義兵衛は応えた。
「いや、それでは小炭団への生産変更が2日以上遅れる。詳しくは聞いていないが、消費する粉炭の量から推測すると、概算で毎日5000個は作れる見込みで春さんが手配していた。乾燥に1日かけるとして、少なくとも1万個の小炭団を萬屋に送り込むことができる。
それがどれだけの助けになるか、自分が叱られても、これで助かれば充分ではないかと思っている」
安兵衛さんが大きく頷いた。
「多分、そう言われると思っていましたよ。すでにしてしまったことはどうしようもありません。善かれと思ってしたことが迷惑となることは良くある話です。ともかく、伝令の方に様子を聞いた上で対策を練り、最善手を考えましょう」
館に到着すると、登戸から来た伝令が助太郎の代わりに門番となっていた。
今は里をあげて米運びの戦の真最中であり、徹底して人が少ないのだ。
「義兵衛さん、門番を代わって頂けますか。館への連絡を済ませたら一服できるはずだったのですが、人手が足りないということで助太郎の代わりをさせられたのですよ」
助太郎がどう言いくるめて役を押し付けたのかは分からないが、知行地にいるほぼ全員が何らかの役目を持たされて動いているのが感じられた。
義兵衛は門番となる代わりに、伝令から昨夜の登戸村での様子を聞き出した。
「これは大層な怒られ方になるかも知れん。だが、5石の扶持を取り上げられる位で済むなら儲け物だろうな。
まあ、武士から百姓に戻された所で、自分の役目がそう変わることもあるまい。なに、御殿様は承知するだろう」
「いえ、義兵衛様。大変なことを忘れております。細江様の養子でなくなれば、華さんとの婚姻はややこしいことになりますよ。義兵衛さん側の都合で縁談が潰れると、持参金は倍返しでしょう。結構な大金ですが、事情からして椿井家の資金からは戻せないでしょう。
萬屋との関係は一気に悪化しますよ」
安兵衛さんの言いだした内容に義兵衛はぎょっとした。




