余剰籾米の談判 <C2529>
兵糧を買い集めた所業を半分冗談にせよ『戦準備』と言い放った三郎兵衛様に驚き安兵衛さんは声を上げた。
「高木様、今回の籾米の買い付けを合戦に例えられては、とても困ります。間違っても御奉行様などの耳に入らぬようにご配慮下さい」
6日前に『飢饉対策を合戦に見立てる』という話が出てから、町奉行・老中を交えて大騒ぎ(513話)したばかりである。
年貢のことを踏まえ勘定奉行様に伝わり、そこから何かのはずみで田安定信様など杓子定規に物事を考える執政者達へ影響があるかも知れないのだ。
単に『飢饉が迫っている噂を信じ込んだ殿様の振る舞い』と説明してこの場を治めようとした義兵衛だったが、その気勢を先んじる安兵衛さんの行動に驚かされた。
「なぜ配慮せねばならぬ。4村分・672石分の米であろう。椿井様が買い取る500石だけとしても1万人の軍勢を一月養える量の兵糧にもなろう。これだけの量を一介の田舎旗本が集めることに、誰も不審には思わぬことこそが不思議じゃ」
「不審に思われるかも知れぬとして、御老中様、勘定奉行様には買い集める事情を説明し、事前に了解してもらっております。
ただ、これを『合戦に見立てた言い方で説明されると誤解を生むかも知れぬ』として注意されております。御老中様が『間違った言い方が広がらぬように』と申しておりました。
先日25日、御老中様と町奉行様が同席する場所に私は居りましたので、間違いございません」
三郎兵衛様は安兵衛さんの説明に納得した様子ではあったが、重ねて聞いてきた。
「それにしてもこの米の量は尋常とは思えぬ。その事情とは何か」
やっと義兵衛の番が回ってきた。
「高木様は大飢饉が迫ってきている噂を御耳にしたことはございませんか」
「うむ、聞いたことはあるが、それはいつもよくある話の一つではないのか」
義兵衛は、高石神社の巫女が『4年後から数年に渡り不作の年が続く』と語ったことを話した。
「こういったことが起きる証拠として、巫女は『同じ4年後に起きる浅間山の大噴火』を挙げておりますが、これが当たった時にはもう飢饉の最中で準備することも出来ません。そこで、この巫女の預言を深く信じた殿は、領民の必要な米を相応量備蓄する指示を出されたのです。万一大飢饉とならずとも、数年に一度は凶作に見舞われる土地故、飢えなくても済むだけの御救い米を殿が準備している、というだけで百姓は恩を感じて働けます」
「なるほど。椿井家の知行は500石と聞いておる。それで、500石か。
御代官様より、今回の事については子細を指示されたのだが『買い入れに必要な籾米を井筒屋に渡し年貢米ではなく代金を納めよ』とのことであったのだが、事情は判った。
飢饉の話が裏にあるとするのであれば、いずれ石高に見合う米を代官所なりで蓄える沙汰が来るのは間違いなかろうな」
「そこで御相談がございます。4村672石の籾米の内椿井家が引き取るのは500石。残った172石は、代官所で押さえておいてはいかがでしょうか。是政、押立、常久、小田分の4村の石高は1820石あります。お上から沙汰があってから集められたのでは、思わぬ高値掴みをしてしまうこともあるかと思います」
三郎兵衛様は義兵衛の提案を聞いて、体を前後に揺らしている。
何か考える時の癖なのか、それを見た井筒屋さんや両脇に控える子分達はどのような言葉が出るのか聞き取ろうと構えている。
「他の所に先んじて手を打っておくということか。成程、面白い。だが、まずは4村全部の取れ高ではなく年貢の1割、67石分もあれば良かろう。後は様子見じゃ。
それから、この米だが是政や押立にはおいておけぬ。知っておろうが、多摩川は何年かに一度は氾濫し、村全部を流すこともある。ハケ上の常久村に移すのが良かろうな。
井筒屋、そのように手配致せ」
「はっ、御下知確かに承りました。
早速そのように手配致しますが、代金はいかがなりましょうか。『4村分の年貢代金として672石で540両を納めよ』とのご指示でしたが、一割の54両を減じた486両を納めるということでよいでしょうか。
また、義兵衛様よりこの件は勘定組頭の関川様が御担当で進められたと聞きました。それ故、605石分の年貢代金として486両を江戸表にて勘定奉行支配の蔵奉行様へ直接納めさせて頂きたいと考えております」
右脇に控えていた手下の方は吠えた。
「いや、それはこちらから納めるよう段取りが済んでおる。直接というのは問題もあろう」
明らかに怪しいのだが、手下の言うことにも一理あると考え、義兵衛は口を挟んだ。
「伝兵衛さん。金額を1割引いて頂けるのであれば、ここで納めたほうが良いですよ。籾米を67石も引き取って頂けるのですから」
三郎兵衛様が大きく頷くのを見た伝兵衛さんは、諦めたように返答した。
「では、椿井家への引き渡しが終わった後に、こちらの代官所で486両を御納め致します。
年貢米引き取りの証文もこちらで書き直したものを用意致しますので、改めてご確認の上でご署名頂きたくお願い申し上げます。
それから籾米67石分、248俵になりますが、常久村名主・吉野定右衛門さんの年貢蔵に戻しておきます。実の所、今日常久からの籾米50俵を是政に運び込んだばかりなのですが、早々に常久に戻すことになるとは思いませなんだ。年貢米を籾米で67石分、代官所与りになることは、三郎兵衛様からもお知らせ頂けると助かります」
どうやらこれでお互いにしたい話は終わったようで、後は伝兵衛さんの世間話と三郎兵衛様の苦労、いや自慢話を一通り聞いてから代官所を辞することとなった。
勿論、訳を知りたい伝兵衛さんも一緒に是政へ向かう。
「義兵衛様、先ほどこちらで代金を納めることを勧めておられましたが、どうしてでございましょう」
明日金子を渡すことをすぐに承知したことから『それ位のことを判らぬ井筒屋伝兵衛でもあるまいに』と思ったのだが、念のための問いに違いない。
「いくつか理由がありますが、まず今回伝兵衛さんが持参している金子が500両ありましょう。これで決済できる、と踏んだことが一番の理由です。また、江戸蔵前で決済すると、株仲間でもないのに札差と同じようなことをしている格好となりましょう。以降の商いに支障がでます。大きな理由はこの2点ですが、実際に486両になったことで井筒屋としても利益が確定したでしょう。
それで、残りの籾米ですが、172石ではなく105石になりましたが昨夜の約束に則り73両2分で引き取るということでどうでしょうか。手形で470両と金子で73両2分の収入に対し486両の支出となりますので、57両2分の儲けがあるはずです」
井筒屋が手形割引で本両替に30両払っているのだから、実質は27両2分。
それ以外にも経費がかかっているだろうから、この金額としても実質ギリギリか赤字になっていることは考えられる。
「いや、そんな単純なものでないことは御存じでしょう。『江戸で納める』と言ったのは『お前等に分け前はないよ』という単なる嫌がらせですよ。御代官様への挨拶で用意した金子など入れれば、今回は損だらけの取引でした。結局は高木三郎兵衛様の懐を潤しただけですが、顔繋ぎはしっかりさせて頂きましたので、来年以降で取り返しますよ。
いやぁ、それでも今回はとても良い勉強になりました。
実の所、大飢饉となる神託の内容を直に確認できたことが大きいですな。そのようなことが起きると判っていれば、儲ける方法は幾らでもあります。まあ、外れるとしても、御公儀がこれに対応するように何かなされるのでしょう。その真意を知っているのと知らないのでは動きが変わりましょう。こういったことを知っていれば、商売の役に立ちます」
三郎兵衛様が年貢代金をピンハネして納めるのは既定のことだった。
夕刻になってやっと是政村に帰り着くと、10人程の人足を連れた館の爺・養祖父・細江泰兵衛さんが待っていた。




