籾米運搬前哨戦 <C2526>
■安永7年(1778年)9月30日(太陽暦11月18日) 憑依259日目 雨
昨夕から雲が多くなったと感じていたが、是政で迎える朝は生憎の小雨だった。
明日、籾米を搬出する時までには止んでいて欲しいものだ。
そう思いながら暫く縁側から外の様子を見ているが、大降りという訳ではないので、多摩川は増水するような気配ではないし、今の感じであれば道がぬかるむ程ではなさそうだ。
昨夕は、ここの名主・河邊五郎兵衛さんと井筒屋伝兵衛さんだけを加えた5人だけで夕餉を頂いた。
難しい話もあるだろうということで、五郎兵衛さんの妻子は同席を遠慮したそうだ。
上座に据えられた義兵衛達3人は、最初に振舞われた酒を盃で頂いたが、まだ若年ということで早々に杯を置いた。
ただ、余剰米の扱いについて目途が付いたことに安堵したであろう伝兵衛さんは、大いに酔っ払ってしまい、溜まりに溜まった愚痴を吐く残念な人になってしまった。
ただ、その愚痴を義兵衛は丁寧に応対したものの、そこからはこの取引に関して特段の情報も引き出せなかった。
そういった様子を五郎兵衛さんが観察していることだけは印象として残ったのだ。
今朝は、二日酔いの伝兵衛さんはさておき、五郎兵衛さんが役宅へ朝餉の支度が出来たことを告げにきた。
「朝餉の用意を致しましたので、本宅の客間へお越しください。
昨夜は特段の準備もできておらず、大変失礼を致しました。今夕は義兵衛様達を歓迎する宴をしたいと考えております。なお、このたびの籾米集めに関わった小田分村、押立村、常久村の名主も招いておりますので、ご承知ください。
他には、蔵を借りている西蔵院から経理担当のお坊様が来られる予定です」
「これは御配慮頂き、ありがとうございます。明日早朝からの搬出に備え、本日は明日早朝に契約完了するための事前確認をしようとしておりました。実の所、井筒屋さんから御役人様と御助力頂いた各村の名主には、事前に挨拶して欲しいと言われていたので、そういった機会を設けて頂いたのはとても助かります。
あとこの雨がどうなるのかが気がかりです。なにしろ1850俵もありましょう。多摩川が増水して米を運び出すのに支障はあるのではないか心配しています。午後には川向こうの大丸から運搬を指揮する細江泰兵衛さんかその配下の方は来ると思いますので、御承知ください」
明日早朝から運び出しとなると、当然それを運ぶ人足が直ぐに動く必要がある。
なので、前晩から現場入りし野宿するようなことも考えているはずだ。
「いや、そのあたりは西蔵院様と直にやりとりなされているように聞いております。今夕から10名ほどの人足が西蔵院に泊まり、早朝に確認が済んだ蔵から順次運び出す手はずと漏れ聞こえております。私共は、西蔵院の蔵4棟に引き渡し用の1850俵と、それとは別口の2棟に642俵を積み上げたに過ぎません。昨日までに指定された全数を指定された籾米で納め終わり、井筒屋さんの確認を済ませ御役人様に報告を終えておりますので、これで今年の年貢の責は果たしました。
いつもであれば、年貢米とするために籾摺りをして玄米にする作業が延々とかかり、納める期日に間に合うかどうかの心配が先に立ちましたが、籾米で済むことや、御役人様との間に井筒屋さんが立ってくれたことで、実に簡単に年貢の作業を終えることができたので、大助かりです。来年もこんな風にできたらと思いましたが、この様子を聞いた近隣の村でも羨ましく思っている様ですよ」
間に立つ地廻り米問屋の苦労が垣間見えた気がする。
昔から続いていた年貢を巡る御役人様と名主の間に、新参である地廻り米問屋が入り、双方の無理を聞いてしまったのだ。
双方ともに今まで言えなかった要望があり、それを少しでも叶えてくれそうな金蔓が間に立ってくれ、実際にある程度の譲歩、ただし実際は井筒屋の損となっているのだが、が得られ得している状況だと言えるのだ。
余剰米を義兵衛の責任で買い上げて処理したことで最悪の事態(余剰米と負債をかかえてしまう)は免れたが、このままではもう二度と同じ役目をするとは思えない。
昨夜の酔って愚痴る姿を思い出してしまった。
数日前(9月21日)に会った時には、商売の基本となる数値『蔵前での公示で玄米100俵が38両近辺、1両が銀58匁』と収量見込みを話す時にこちらに漏らしていたことを思い出していた。(487話)
利を載せるため、多少高めの金額を擦り込むつもりでいたのだろうが、それでも米輸送費分の値引きや受け取りを籾米にすることで多少安く買い叩けることなどを見込んで、結構な利益が出るつもりだったに違いない。
それが実際の所、いつもの買い付け先ではなく天領の米を代官所から買い付ける体となり、名主から集める所までやらされた挙句、余計な米まで押し付けられ、さらに御蔵入りに合わせて現金を代官所へ届けるという話にすり替わってしまったのである。
更によく考えてみると蔵前の米を現金に換える札差の業務を黙ってやらされたも同然であり、これが大っぴらになると地回りとは言え江戸の仲間内から米問屋業を弾き出されてしまう可能性もあることなのだ。
こうなってしまった一端には、勘定奉行を経由して御老中から代官へ『椿井家が行う籾米の買い付けを手伝ってやって欲しい』と伝えられたことが遠因でもあり、代官所に挨拶した折に御役人の目論見を下知されたに違いない。
そうなると、義兵衛としても多少の責任はあるようにも思え、伝兵衛さんが愚痴るのも無理はない。
「では、今日は西蔵院の蔵4棟に納められた1850俵の籾米を確認します。それから、押立村の代官所へ行きたいと考えています」
朝餉が終わる頃に起きてきた伝兵衛さんに義兵衛は行動予定を伝えた。
「籾米の確認は六助に手伝わせます。私は西蔵院へ同行した後、押立村の代官所へ行き、義兵衛様が御挨拶できるように場を整えます。昼時分に代官所へ来て頂きたくお願い致します」
「午後には、川向かいの大丸村を経由して人足を指揮する方が来るのではないかと思っております。それまでには押立村から戻りたいのですが」
「存じております。夕刻に細江村から椿井家宿老の細江泰兵衛様が西蔵院へ来られると聞いております。それまでに私も西蔵院へ戻りますので何の問題ありません。
泰兵衛様とは長い付き合いになります。いつも私が米を買い取る方でしたので、今回は少し勝手が違いやりにくいですねぇ」
いつもは井筒屋に立て替えてもらった借財を米で決済し、翌年分の借財にかかる利息を少しでも下げるようお願いする恰好だったに違いない。
それが今回は借財も既に完済しており、米を買う立場で井筒屋と話を進めているのだ。
武家としての権威で商人に相対していることは想像に難くなく、得意満面で現場への作業を指図しているに違いない。
今まで旗本知行地を相手に散々なことをしてきたことの報いなのかも知れないが、義兵衛としては折角得た縁であり、まだまだ井筒屋を使いたいと考えているので、多少とも面目が立つように振舞う必要があるのかも知れない。
「昨夜『御役人様へのお礼はしない』と言いましたが、ちょっと考えを改めました。挨拶に加えてお礼の言上をしようと思います。また、場合によっては余剰となった籾米を代官所でそれなりの値で引き取ってもらえるよう助言してみましょう。相手する御役人様は何名ほど居られますか」
二日酔いで気だるげにしていた伝兵衛さんの表情が変わった。
「はっ、御代官様下役の高木三郎兵衛様とその手代3名となります。
高木様は御高齢ではありますが、故代官・川崎平右衛門様に仕えた方で、百姓達からの信はかなり篤い方です。今回の籾米の手配については、この方からの指図で動いたようなもので、私はそれに乗せられたに過ぎません。おかげでかなり目算が狂いましたが、義兵衛様が御助言して下さるのであれば、とても助かります」
安兵衛さんがあきれ顔をする傍ら、勝次郎様はしきりと細かな文字を帳面に書きつけている。
だが、このままでは思うような図式にならないのだから、ここは口を出すべき場面だろう。
武蔵野開拓の偉人・川崎平右衛門様の下で働いた方であれば、きちんとした話は通ると義兵衛は判断した。




