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田沼意次様の判断 <C2513>

 庚太郎様は土蔵の2階に着くなり独り言の様に口にした。


「どうにか田沼様より先に着くことができた。流石に待たせる訳にはいかぬのでなぁ……

 あぁっ、甲斐守様。そこに居られましたか。これは大変失礼致しました。屋敷に戻るなり、此度のことを聞き急ぎ駆け付けました」


 あわててその場で平伏した。

 確かに薄暗いままの土蔵では目が慣れるまで誰が居るかははっきりと見えないのだ。


「かまわぬ。ここでは余計な儀礼は無用である。後は御老中様だけであるが、どれ灯を入れるとするか」


 曲淵様はさっと階下に行くと灯の付いた手燭を持って上がってきて、素早く四隅の行燈に灯を入れ、庚太郎様に鋭く質問した。


「今日、田安様へのお話はどのような感触であったかな。話の中身は御老中が同席の時で良い。まずは、ご機嫌はどうであったのか、を知りたい」


「ははっ、報告の始めの頃は無表情でしたが、里の飢饉対策として近隣の要所に米蔵を備えて難民の流入をそこで抑える策を取る方針と、それを進めるにあたり蔵を作る資金は当家が練炭で作った利益を、お上を通じて貸し与える方向で進めたい旨を説明すると、随分と御機嫌であらせられました。その後、里の事情・様子を細かく説明しました所、都度『もっともなことである』とおっしゃい、最後には大層満足なされたご様子でした。

 また、御自身が登城せず田安御殿に居る時は『必ず下城の際に屋敷に寄る様に』とおっしゃられました。私の登城日は、調べておくとのことでしたが、どうやら10日毎にこうなる日があります。従い、月3回は対面でお話をせねばならぬようです」


「ほう、結構気に入られたようではないか。その分であれば、椿井家の里のありようについて、興業で話題となった場合は田安定信様から説明頂くことは可能であろう」


「はっ、そのように考えて良いかと」


 階下から、御老中・田沼意次様がお忍びで到着した旨が告げられると同時に、田沼様が二階に入ってきた。


「うむ、もう皆揃っておったか」


 安兵衛さんと勝次郎様は階下に降りようとしたが、田沼様が制した。


「その方等も深く関係しておることじゃ。中途半端に聞きかじっておっては、聴き所も判らず正確な報告もまとめることは難しかろう。どうせ義兵衛から内容は漏れ聞こえておるに違いないゆえ、このまま参加されるがよかろう。気付いた点があれば、都度発言も許そう。こういった場で堅苦しくしても碌なことはない」


 立派な意見ではあるが、田沼様の意思に沿わない疑問を口にした時にも、今と同じように寛容であるかは疑問と見るべきだろう。

 せめて、話の中の矛盾を指摘するのではなく、解決する施策も併せて述べ、優劣を御判断願うレベルにまでしてからでないと、安易に意見してはならないのだ。

 このあたりは元居た世界でよくある無礼講と言われた会議と大差無い。

 要は、いかに上の思いを先に読み動くのか、なのだ。


「では、早速聞こう。庚太郎殿、田安様へどのような話をしたのか子細を明かせ」


 御殿様は午前中にあった定信様との会話の内容の要点を説明した。


「町奉行から『飢饉対策を合戦に見立てた説明をする見込み』と今朝ほど報告があり、これがそのまま伝わっては一大事ととらえたのだが、そこはどうした」


「はっ。『合戦』という語句は刺激が強すぎると判断し、この用語はあえて使用してはおりません。しかし、里の飢饉対策の一環として周囲の主要街道筋の村に米蔵を作り、そこで難民の流入を抑えること、街道筋に抜けがないかを見るため我が嫡男を里へ戻すことは説明しております。

 4年後の不作が明らかになってから始まる事態を見越して、今から手を打っていることは以前より申し上げておりましたので、今朝の説明では特段の不信感は持たれておりません。ただ、事情を全く知らぬ者からすると、当家が急に米の備蓄を進めておりますので、何か怪しい動きに見えている可能性はあります。そのため『合戦』という言葉を御執政の方々が認識すると、今の椿井家の里の動きは『反乱準備』という誤解を生みやすいと考えていた次第です」


 米買い付けの許可を、田沼様を経由して勘定奉行様から予め得るよう御殿様が動いていたため、何らやましい所はないのだが、義兵衛が見落としていたこの事前通知・許諾確認が無ければ、窮地に陥っていた可能性が高いのだ。


「こういった椿井家の動きが何らかの異常行動の先触れに見え、誰かが『戦支度』と例えて田安様の耳に入れる可能性はあります。ただ、少なくとも、私が口にした言葉ではない故、申し開きはできましょう。さらに、この全国的な飢饉に対し、御公儀が『合戦』と意識して対策すべきと考えた場合でも私に御鉢が回ってくることはない、と考えました。

 私は『4年後から始まる飢饉の神託を信奉しているただの馬鹿者』と皆に認識されるよう振舞っております」


 流石に慎重な御殿様で、自分が矢面に立たないように色々と細かい所に工夫していることが良く判る。


「うむ。下手に刺激する危ない言葉は避けたようじゃな。賢明な判断である。実の所、それを懸念しておった。今、その言葉を旗印にして田安様が動き始めると、色々な段取りもとれず大騒ぎとなることは見えておる。さんざん騒いだ挙句、執政の責任だけはしっかりと老中に回ってくるのだ。

 それで、穏やかに進める方法なのだが、まずは、大飢饉が迫っている噂があり、その子細な内容と出どころを調べておったことを上様や西の丸様には伝えよう。

 その上で、この言を信じて今から手を打ち始めている旗本が居ること、19日に一橋様が主催なされる仕出し膳の興業ではその旗本が同席することは確定事項ゆえ、説明しておく。もちろん、その旗本が対策資金を得るために興業を後援しており、興業の席は私的なものであるため経緯や機微はその場で聞くこともできる、と話しておく。城下にも、町民の米相場安定と飢饉対策として町会で米蔵を作る動きもある。そういった飢饉に符合する動きがあることを上様が知っておればよいのだ。

 ただ、庚太郎が賢明にも『合戦』『戦支度』という語句を使うのを避けたように、今の時点ではワシも説明を避けるようにしよう。伝えるとしても、西の丸様に興業の当日、ほのめかす位かのぉ。

 まあ、それまでに田安様が気付かれて言い始めれば同じことではあるが、騒ぎが大きくなる前に上様が抑えてくれよう」


 変な刺激を避けたいという思惑は、田沼様も同じだったようで、どうやらこの緊急の寄り合いの目的は達せられたようだ。


「それにしても、庚太郎は知恵が回るものよの。田安様の用人に収まるのではなく、勘定方に回らぬか」


「はっ、私は元来の怠け者で勘定方は務まりませぬゆえ、御容赦の程を。それに田安様からは引き立ての恩義がございます」


 田沼様が懸念していた案件は片付いたようで、どこかほっとした空気が流れている。


「田沼様、この場で御相談が御座います」


 曲淵様が声を上げた。


「今朝ほど義兵衛が浸炭問屋の萬屋にて、料亭八百膳の主人・善四郎に語った内容のことで……」


 曲淵様は、料亭の順位付けについて新たな方法を義兵衛が教えようとしていること、その方法が事象の因果関係を解き明かす一助となること、これにより施策の有効性を判断することもできるようになる可能性があることを話した。


「ただ、その中身が私にはさっぱり理解できておりません。そこで、この内容について義兵衛が説明する折に、算学者を同席させたく、有馬左少将殿に人を推薦して頂きたいと考えております。いかがでしょうか」


 御殿様は、うんざりした顔で義兵衛を見ている。

 田沼様は腕を組み小さな声でなにやら唸っていたが、しばらくしてこう判断を下した。


「算学者を同席することは、今は見合わせよ。確かに有益な知恵かも知れぬが、急ぐこともあるまい。まずは、番付で実績を上げ、その内容を吟味してからでもよかろう。

 今、義兵衛を関派に直接接触させ、義兵衛の存在やその知恵をそのまま拡散させるのはいろいろと危ない。できれば、番付の実践で習得した技だけ見せることで、義兵衛を隠匿するのが好ましかろう」


 この田沼様の判断により、西洋から50年は先行するであろう本邦での統計学の成立は若干遅れ、また起源が不明となったのである。

 それからしばらくして奉行所の土蔵から解放され屋敷に戻った義兵衛は、御殿様から散々小言を言われたのは極当然の流れであった。


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