練炭増産施策の検討 <C2510>
どうやら練炭の需給は釣り合っているか、やや供給不足になる見込みとなりそうだ。
御城分として納めた練炭も、便利ということで七輪の追加発注があれば、合わせて大量に買い上げとなるに違いない。
とんでもない考えかも知れないが、練炭の献上=無償提供を求められる可能性もある。
流石に、調達・分配元となる油奉行が椿井庚太郎様なので、そのようなことは起きないと思ってはいるが、関係者であるが故に起こり得ないことではない。
「七輪を絞れば練炭の需要が抑えられると踏んでおりましたが、確かに椿井の御殿様から七輪が御武家様や市中に流れることは失念しておりましたなあ。御屋敷の長屋に積みあがった七輪の山は、椿井家にとってみればこの在庫は借財の山でしょう。商人なら一刻も早く掃かせたいと思って当然の状況でしょう。そう思う御殿様も凄いとは思いますがね。
それから、お役に就かれる時も、七輪を献上しておりましょう。評判となれば、薪炭問屋から御武家様へお買い上げ頂くことも増えましょう。拒む訳にはいかないので、萬屋としてもその通りに出荷致しますが、先ほど説明した推移予測より半月程は前倒しを覚悟したほうが良いのかもしれません。そうすると、年末時点で萬屋の蔵にある練炭は全部掃けて、在庫は無くなりましょう」
忠吉さんは事も無げに言うが、毎日必要とされるものが年末の商家で在庫なしということは、年始休業も無しで練炭を作らなくてはならない、という意味なのだ。
そして、そのことは年末明けの初荷に備えて萬屋も無休ということを意味している。
「七輪を持つそれぞれの所では、年末年始の間に消費する練炭の在庫は確保されておりますでしょう。少し需要を多く見込み過ぎていませんか」
「いえ、七輪・練炭について御武家様への販売方法として、各薪炭問屋へそれなりの数量を事前に配布しておりましょう。そのため、萬屋の蔵の在庫は帳簿上より減っております。不足する練炭を薪炭問屋間で融通してもらえれば多少は助かるのですが、不足しそうだと悟った時点で、それぞれの店は自分の所の在庫を増やそうと動きますでしょう。それも見込んでの在庫なしです」
義兵衛の楽観的な発言に、忠吉さんは厳しく言い返した。
確かに、市場で不足する物資は通常より高い値で取引されても不思議はないのだから、それぞれの店としては余計に仕入れておいても問題はない。
おまけに、七輪・練炭については現物先渡しで売れた分だけ補充するという常とは違う販売方法を始めたことで、各店は在庫をかかえてもローリスク・ハイリターンとなるのだ。
もっとも、在庫の積み増しをするには、売れたことにして仕入れるという形になるのだが、先渡しされた分が丁度良いバッファとなるので抵抗は少ない。
新しい商売を始めるにあたって取り入れた方法が、練炭の数量調整にとってかえって負担となっているのだ。
「今、生産を行っている名内村や佐倉藩の工房に私の村の者がいないので直ぐという訳にはいかないのですが、伝を辿って増産の見込みを確認してみましょう。
それから、練炭を受入している所から、増加分については割増しで支払いする旨通知するのも良いかも知れません。特に、佐倉藩への働きかけは、工房を増やすために資金が必要な時期というのもありましょうから有効な気がします。場合によっては、特別に割増しに協力してもらうため、工房増設の一時金として一工房追加毎に100両位出すというのはどうでしょうか」
1個350文の強気な売値を続けるのであれば、寒川湊で1個115文ではなく、120文と5文程度上乗せしても何ら問題ない。
毎日の搬入11000個で316両1分(3162万5千円)の支払い証文となっているが、たとえばもう1000個増やした分の支払いには30両(300万円)と1両1分上乗せすることを通知すれば励みになるかも知れない。
本来、売値が1個200文と想定していたので、今は帳面上だけなのだが異常な程儲かっているのだ。
「一時金は良い考えかもしれません。ただし、証文ではなく、現金で渡すほうが有効でしょうな。ただ、今の萬屋に複数の工房作りを応援するほどの金子が用意できるか、と問われれば難しい。せいぜい2ヶ所止りかと思いますよ。それに今直ぐには間に合いません」
千次郎さんが慎重な意見を述べた。
手持ちの現金から見ればもう少し余裕はあるのかも知れないが、全部を吐き出せないというのは理解できる。
「確かにその通りですね。新規に工房を作っても、納品できるような品質の物が安定して作れるようになるには、経験からして2ヶ月はかかります。今直ぐ着手したところで、そこからの物が出始めるのは来年早々でしょうから、年末の急場凌ぎには間に合わないですね。ただ、佐倉藩からの練炭を増やす見込みが立てば、金程村の工房で練炭の生産を小炭団側へ振り分けることも出来るかも知れませんよ」
あくまでも可能性の話であって、現時点で約束はできない。
しかも、小炭団の増産にかかれるのは来年のことなのだ。
「まずは、増産の見通しを至急確かめて頂けませんか。その上で上乗せ分の積み増し金や、工房新設の一時金について考えてみましょう。現状のままの推移だと不足が悟られるのは2ヶ月後の11月末位かと思われます。それまでは内情を伏せましょう。
それで、こちらの方から搬入を増やして貰うよう依頼し、来月中旬位まで様子を見ていてもよいと考えます。現状で増加の限界が見えたら、そこから上乗せを伝えることとします。
さあ、商売のことはここまでにして、本宅へ行きませんか。先ほど丁稚をやって、これから行くことを伝えています。丁度昼時ですし、昼飯の準備も出来ているはずです」
ここまでの千次郎さん、忠吉さんとの会話は聞いていて面白くはなかったであろう勝次郎様は、この言葉を聞いて笑顔になったのを義兵衛は見逃さなかった。
「では、忠吉。後は任せましたよ」
千次郎さんはこう一声かけると義兵衛を店の更に奥へ案内し、敷地の一番奥にある勝手口から3人を裏通りへ送り出した。
「夏前はこの勝手口の手前にある小部屋で、萬屋の丁稚姿になり、定信様の御屋敷へ通ったことを思い出しました」
安兵衛さんは懐かし気にこう話すと、勝次郎様は目を丸くした。
その後は歩きながら小声で事情を簡単に説明しているが、折に触れ先輩風を吹かしているに違いない。
一昨日夜のお婆様の話では、当事者でないため詳細を知らなかったものと思われる。
具足町から本宅までは数分の距離なので、直ぐである。
玄関ではお婆様が待っており、義兵衛が土間に足をいれると深く頭を下げて挨拶を述べ始めた。
「一昨日瓦版が出て、此度の興業の大成功が巷の評判になっておりますよ。皆様には足繁くこちらへお越し頂け、このお婆も大変嬉しく思っております。ささ、勝次郎様、安兵衛様もお上がりください。
昼食の準備も出来ております。華も待っておりますよ」
次回の興業の段取りや座の先行き案件で目一杯振り回されていた義兵衛にとっては、いろいろ有り過ぎて20日に行われた興業が彼方のことのように思えていたのだが、世間としては愛宕神社の水運び競技も含めた興業はつい先日の出来事であり、間2日空けた一昨日にやっと顛末を載せた瓦版が出て仔細が皆に伝わったばかりなのだ。
安兵衛さんや勝次郎様にもお婆様が笑みを見せるのは、つい先日の21日夜に徹夜で義兵衛のことを語って聞かせたことで親しみを感じたからだろう。
座敷に着くと、昼食を始める前にと義兵衛は切り出した。
「お婆様、千次郎さん。次回10月の料理比べ興業についてですが、19日に一橋家主宰で西丸様を招いての武家主体での宴、20日に幸龍寺での通常興業となっていることはご存知かと思います。それで、19日については関係者を会場である巣鴨の一橋様御屋敷で控えさせておく事、との指図が御奉行様から出ており、千次郎さんとお婆様には当日そこで待機して頂くことになります」
この件は要請ではなく指図なので、町人側に否はない。
「そして、もうひとつ、別件になるのですが……




