村に帰ってみると助太郎が呆けていた <C251>
義兵衛がいない間に何が起きていたか、という状況説明です。
あいかわらず筆が遅くて済みません。
物語の中では、1778年2月25日・憑依して19日目のことです。
■安永7年(1778年)2月下旬 金程村
翌朝、大丸村の芦川家を後にする。
貫衛門さんが顔をクシャクシャにして見送る傍ら、貫次郎さんも見送ってくれた。
「是非、近いうちにおいでなされ」
どうやら、ここ大丸村は登戸村に次いで重要な拠点となり得るようだ。
帰路は、山崎通りを百村に向って進み、そこから鶴川街道で坂濱村へ向い、山を越えて平尾村に至る途中で山を降りずに尾根伝いに細山村・金程村に向う道があるとのことだ。
この経路であれば、最短距離ではないものの、坂濱村までは比較的平坦な道であること、獣道めいた山中を進むのが坂濱村・平尾村の村境界からで済むため、物を運ぶににはかえって時間がかからず都合が良いとの話であった。
果たして、村境界からの脇道はたやすく見つかり、暫く進むと見覚えのある道に出たのだ。
「この道は是非整備しておくべきだ。
少なくとも、左右の藪を少し踏み固めるだけで、楽になる」
見覚えのある道に出たところで、目印として手ぬぐいを枝に結びつけた。
家に戻ると、名主・百太郎に早速ことの首尾を説明した。
「七輪に秋葉さんの焼印を押す件については、神社別当円照寺の和尚さまから、おおむねの同意を得られました。
ただ、他の神社までには権限が及ばないのでそこは承知してもらいたい、とのことです。
また、初穂料については、検討するということで、金額については次回相談となっております。
いずれにせよ、実物を見てみたいとのことです。
また、芦川貫衛門さんから、父の昔の話を少し聞きましたが、結構印象深く覚えておいででした。
登戸村の競り売りの話、加登屋さんでの実演が面白可笑しく伝わっていて、一通り説明はしました。
そして、七輪・練炭について、加登屋さんのように販売をさせてもらいたいという申し出がありました。
府中から甲州街道沿いに販売するのであれば、問題ないと考えています。
こちらも、実物を持参して買取してもらうことを考えても良いと思います」
百太郎は、黙ったまま話を聞き終えた。
「芦川貫衛門さんか、昔世話になったのぉ。
その様子では元気であったか。
さて、お前の話は解った。
七輪と練炭をある程度運び、それを背に価格交渉というのが次に来るということじゃな。
そうすると、その準備が重要じゃの」
ここで、深いため息をついた。
「原料として、竹炭窯を立てる件じゃが、その材料とする竹の準備が出来ておらん。
切った後、数ヶ月の乾燥が必要なのだが、乾いた竹が今無い。
全く無いという訳ではないが、ひと窯立てる程の量がない、ということなのだ。
このあたりの見込みも含め、助太郎と相談して来てもらいたい」
どうやら、加工する木炭の材料不足が見えてきたようだ。
義兵衛は、使わなかった懐の600文=15000円相当を取り出し、百太郎に戻した。
「出し遅れましたが、大丸村で使わなかった600文です。
あと、家にはこの練炭販売で得た銭はいかほど残っておりますでしょうか」
「ざっと4000文(=10万円相当)じゃ。
この銭で、何を考えておる」
「近くの村で作るザク炭を買い付けることを考えます。
炭屋への持込でザク1俵(=15kg)が200文(=5000円相当)です。
ならば、同じような値段で買取すれば良いと思います。
20俵(=300kg)あれば、練炭200個分は充分あります。
これを売って銭に換え、またザク炭を買えば良いのです」
「なる程、その手があるか」
百太郎は元気を取り戻したようだ。
「お前が大丸村に行っている昨日、お殿様代理の甲三郎様に薩摩芋入手のお礼報告をしに行った。
その折、手土産代わりの献上品として、薄厚練炭を48個持参したのよ。
前回献上品の中に薄厚練炭はなかったので、珍しかろうと思ったのだが、これが正に図星だった。
お前の代わりに、木炭加工の責任者ということで助太郎を紹介したのだが、これも良かった。
薄厚練炭の効能を含め、色々な説明を甲三郎様にしていておったぞ。
薩摩芋の報告を孝太郎にさせたのだが、結局は練炭の助太郎の覚えがよく、ワシとしては半分残念なことじゃ」
これは中々良い働きをしてくれたのではないだろうか。
「それで甲三郎様は『義兵衛といい助太郎といい、金程村にはよほどの人材がおる。一度、木炭加工の工房を訪れてみたいものよ』と仰っておった。
まあ、このあたりの首尾も含めて、見てきてくれ」
普通、お目通りをする機会なぞない所を、直接お声掛けしてもらっているとは、有頂天になってなければいいが。
まあ、実直な助太郎のことだ。
いつ甲三郎様の巡行があってもいいように、準備を進めているに違いない。
心配しつつも、急ぎ工房へ向う。
いつもと違い、放心状態という感じのする助太郎がそこに居た。
「あぁ、義兵衛さん、やっと来てくれた。
昨日、お館へご挨拶に伺ったのだが、お殿様代理の甲三郎様にお目見えすることができた。
そして、ご挨拶だけではなく、手土産の薄厚練炭を献上したのだが、その説明を求められてしまった。
何を言ったか、もう無我夢中だったが、お目見えが終わる時に、義兵衛さんと俺のことを褒めただけでなく、この工房を是非見たいものだと仰ってくださった。
家に戻って父に報告したら、家中大騒ぎになってしまった。
普通、名主の家でもないのに、見聞したいなどということは、今までにない名誉なことだ、と父が舞い上がってしまっている」
百太郎から、ことの次第を聞いていたから解るようなものだが、助太郎の言うことの順がグチャグチャで、まとめ直すと上のような次第ということが解った。
父親から辟易するほど賞賛されまくったのだろう。
「落ち着け、助太郎。
お前まで舞い上がっていてどうする。
まずは、工房の中の整理だ。
材料の木炭置き場、これを粉炭にする作業場、粉炭を貯める場所、粉炭を捏ねる作業場、練った粉炭を型で抜く作業場・つなげる作業場、型で抜いた練炭を仮置きする場、練炭の乾燥場、乾燥した練炭を貯める場所。
これを順番に流れていくように作業している場を並べる。
作業に余計なものは、別のところに置く。
そして、床に邪魔なものが落ちていないか、手元は作業するのに充分明るいか、汚れていないか。
こういった整理・整頓をするように、指示はしたのか」
「とりあえず、米と梅には、掃除しろと言っていて、朝から掃除をしてはいるが、具体的にどうするかは言っていない。
二人を呼んでくるので、少し待っていてくれ」
間もなく、娘二人組が現れた。
こういっては何だが、元いた世界だと二人は中学生なのだ。
できることは高が知れている。
そういう、義兵衛も助太郎も高校生に過ぎない。
まだ来ていない寺子屋組に至っては、小学生、しかも内二人は小学一年生なのだ。
元いた世界であれば児童福祉法違反なのだろう。
しかし、江戸時代の農村は年端もいかない子供も含め、全員が一致協力し真っ黒になって仕事しないと生きていけない厳しい時代なのだ。
俺は、娘二人を前に、工房の図を書きながら、作業工程の整理・現場の片付けをどうするのかを説明して行った。
主に練炭作りを説明したが、七輪作りも同じように片付けるよう指示する。
寺子屋組みがやってきたら、米が福太郎と春を、梅が近蔵を指導して整理・整頓を進めるよう言い付けた。
この二人に指図するうちに、助太郎の表情が徐々にいつもの頑張る感じに戻ってきた。
多分、なんとなく解ってはいるものの、流れ作業という考え方で整理したことが無かったのだろう。
当然である。
ここは江戸時代なのだから。
江戸時代に詳しい方!炭の株仲間でないと炭は小売できないという前提で執筆をしておりましたら、「行商は特段許可なく小売していた」「株仲間でないと江戸内に店を持てないだけ」という記事に出くわしました。前提が大きく変わる記事だけに、扱いに困っています。江戸時代の時期による違いの可能性もあり、調べきれません。このあたりの事情に詳しい方のコメントを頂きたく、よろしくお願いします。
次回は工房で助太郎との作戦会議です。驚くような地名が出ますが、超地元向けです。
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