善四郎さんと簡易計算道具 <C2508>
「義兵衛様、是非にも御相談したいことがあり、飛んで参りました」
「ああ、19日の一橋様の武家側興業のことですね。出席者は6名、西丸様・清水様・一橋様・田安様・田沼様・曲淵様・それに我が殿です。献上する膳の数は倍の数と見ておけば良いかと考えます。そして、亭主以外は控える必要はないかと思われます」
「ああ、確かにそれも気にはなっていたことです。各地域から2店舗ですから最低36膳なので、倍の72膳となりましょう。いや、3倍の108膳用意させましょう。各店にしてみれば18膳ですから、たいした量ではございませぬ。翌日の商家主体の興業も、ある程度路線が見えておりますし、会場となる幸龍寺も何度もかかわっておるので要領は判っており、粛々と準備を進めれば良いのです。
それよりも、10月20日の商家側興業が終わった後のことです。仕出し膳料亭の座の寄り合いですが、前は340軒でしたが、座に加わりたい料亭からの申請がひっきりなしにあり、どうにも手がつけられんのです。どうやら、江戸中の料亭が仕出し膳を出すので、と座に加わって来る勢いです。
こうなってくると、今まで通りの形で続けるのは、名目や体制も含め、とても難儀な風になってきております。私どもでは、もう先が見通せなくなっており、どうすれば良いのか、知恵を借りたいのです」
興業を進める方針が、揺らいでいることが伝わってくる。
そもそも料理比べの興業は、卓上焜炉を料亭で使ってもらいたくて始めた試みだったのだが、これが馬鹿当たりしてしまった、だけのことなのだ。
興業の宣伝効果たるや、凄まじいものになっており、おまけに執政を担当される方々が直々に参加されるということで、実質的に御公儀公認の座となってしまっている。
始めた当初口にした『料理文化を発展させ極める』などという文句は、伝統ある料亭をその気にさせる後付けの言葉に過ぎなく、善四郎さんはそれに踊らされた格好なのだが、このような状態になることを誰一人として想定していなかった。
義兵衛の思いつきから約半年、毎月のようになんとかその場凌ぎに近い小知恵を重ねてきたのだが、ここに来て、治まりがつかなくなってしまった様に見える。
日本人の食文化への関心がどれだけ高いのか、もうこういった時代からその萌芽があるようで、恐れ入ってしまった。
「確かに、仕出し膳の座という枠ではもう収まらない感じになってきていますね。どうすればいいか、ですか」
皆身を乗り出して義兵衛の声を一言でも聞き洩らすまいと身構えている。
そうまで真剣になってしまうと、冗談の一つも出せない。
竹森氏の元いた時代では、料亭・食の扱いはどうなっていたのか、聞き出していた内容をまとめようと考えていると声が響いた。
『そう思いつめなくても。まずは八百膳・善四郎さんの一番負担になっている部分を軽くすれば、本人も身動きできるようになるはずだ。前に食のガイドブックやグルメサイトの仕組みなんかを説明しているだろう。その要点を伝えればよい』
「興業のことも含めて、この座の要は料理番付表でしょう。座に加わる料亭の料理を審査して順位を決める、という作業は大層な重荷と考えます。それを善四郎さんが主体となって自らまとめて作成されておりますが、その作成作業自体をどこかに移管されては如何でしょう。
例えば、興業に深くかかわっている瓦版の版元・當世堂さんの中に専門とする料亭部門を作ってもらい、そこで作った料理番付表に八百膳として意見できる程度のかかわりとするとか」
「確かに、料亭で出される仕出し膳の優劣を付けるのを他へ任せられるとなると、随分と助かる。実の所、自分にとってこれが結構重たく、これをしなくても良いとなると、かなり楽にはなる。
だが、當世堂の主人は料理に深くはないぞ。そういった者が、そもそも順位を付けることができるのか、判らぬではないか」
「いえ、版元では集計作業をするだけです。実際に料理を吟味するのは、そこから委託を受けたいわゆる食通の方達で、食通の方達から美味しいと感じた料亭や料理の内容を個々に評価・報告してもらい、それを積み上げて計算・分析し、その結果として順位付けしていけば良いのです。
もちろん、食通人にも逆に評価をつけ、その評価値に従い報告内容をどう反映させるのかも決めておきます。処理手順を規則として決め、それに従って処理するので、計算なんかは大変ですが、客観性は確保できます。もし、変な結果が出るようであれば、評価方法や処理方法におかしな所があるということなので、これを改めればよいのです」
義兵衛の説明に千次郎さんがピクリと反応した。
「計算というと、あの練炭の販売計画表に似たものが出てくるのでしょうか」
「その通りです。分析・集計するのに、実はとても便利なのですよ。販売計画表を作る時は、半紙を並べて逐一墨書していましたので大変でした。今回の集計では、一番最初に思ったような結果が出るまで係数を調整し、頻繁に計算し直す必要があります。
そうですね、それを軽減させるにはちょっとした道具を作って瓦版屋で使って貰いましょうか」
安兵衛さんが割り込んだ。
「義兵衛様、それは安直過ぎる考えではないですか。道具を作るのはともかく、影響はちゃんと考えておられるのでしょうか」
確かに疑念は判るのだが、突拍子もない考えではないはずだ。
算盤の浸透で位取り表記のベースはできており、集計表と合体させるだけのことでそこまでの先進性はない。
ビジカルクやロータス123、Excelのような、参照して自動計算というのは、コンピュータが登場してからの世界なのだ。
もちろん、便利な検索やら並べ替えなんかは、自動計算以降のことなので、手動で行うしかない。
つまり、表計算を多少楽にする特殊な道具に過ぎない。
安兵衛さんの言葉を無視して善四郎さんが話を引き取った。
「義兵衛様、それはきっと面白いものなのでしょうな。なにかワクワクしてきましたぞ。こんな言い方をされる時は、例えば幕の内弁当のように、結果として随分と魂消た物が世に出てくる。さあ、早く教えて下さい」
奉行所の土蔵に縁がない善四郎さんが無邪気にはしゃいだ。
いや、そんなに大層な道具ではないのだから、この無邪気さは困る。
「いや、そんなに大仰なものではありません。安兵衛さん、ご安心ください。今までに説明したことのある販売計画表の延長上にあるものですよ。実際には、長い樋のようなものを何本も並べ、その中に等間隔で仕切りを設け、数字を書いた小さな札を入れるだけの代物です。
今は大きな数字を扱う必要がありませんし、5桁もあれば充分かな。それで、まずは8行8列位でお試し版を作ってみましょうか」
概念さえ伝われば、必要に応じて桁数を増やしていったり、シートのサイズを拡大すれば良いのだ。
そう割り切った義兵衛は、用意してもらった紙に作ってもらうものの概要図を描いた。
横を見ると、安兵衛さんが必死に写している。
「小さな札を沢山作るとありますが、壱から九の数字札は判りますが、空白の札と零という札が判りません」
千次郎さんが図の中の小さな札を指差しながら疑問を呈した。
「算盤の5桁を思い浮かべてください。例えば六百四という数字を表すのに、6飛んで4と置きますよね。同じように、これを仕切り内に並べる札で表すと、空白・空白・六・零・四となります。5桁なので、あまり意識できないかも知れませんが、8桁や12桁という大きな数字を扱うようになると、空白を使う便利さが判りますよ。この表記方法では、万・千・百・拾・一という数の単位に代わり、数字のある桁を単位として使う方法で、位取り記数法と言います。この方法で帳票を作ると、集計は楽になるはずです。
とりあえず、実物ができたら、瓦版屋でどう使うか説明しましょう。
それで、善四郎さん。料理や料亭を評価する時に、どういった項目で評価するのでしょうか。主に影響がある項目を4~5個教えて下さい。この項目が料理・料亭を順位付ける鍵となります。
今直ぐでなくて良いので、実物を使って瓦版屋で説明する時までに用意しておいてください」
「よし判った。任せてくれ。まずはこの図を参考に、弁当箱を作ってくれた木工屋に相談して来る。出来上がりの日がはっきりしたら、萬屋に伝えておこう」
善四郎さんは義兵衛の描いた図面を鷲掴みにし、萬屋からバタバタと駆け出して行ってしまった。




