夕刻の土蔵 <C2501>
「主計助様(椿井庚太郎様の官名)、明日の早朝ではなく今直ぐ北町奉行所に来て頂きたい、とのことでございます。勿論、関係する義兵衛殿、紳一郎殿も同行してください。なお、主殿頭様(田沼意次様)も今宵お忍びで奉行所に来る手はずとなっております。
また、主計助様の明日の登城は『主殿頭様の下命により欠席』と勘定奉行様へ届けを出すように、との指図が御座いました。勘定奉行の能登守様(桑原盛員様)へはその旨を伝えておく、と聞いております」
勝次郎様は一気に捲し立てた。
桑原能登守様は、作事奉行から勘定奉行へと昇進された方で、米や金子の扱いに長けている方のようである。
そして御老中・田沼様からの指示で御殿様の叙任の経緯とも絡んでいるせいか、御殿様の直接の上司と目されているのだ。
更に、能登守様直下で働く勘定組頭の関川様が、米価安定のために自分との接点を増やそうとしている気配もある。
いずれにせよ、勘定方とはこれからも仲良くしていく方が椿井家のためになるのだ。
「もはや夕刻ですが、御門を通る鑑札はどうなっておりますかな」
宵になれば屋敷から奉行所に向かう御門は閉じてしまい、昼間のような通行はできなくなる。
そこで門番に御用であることを告げ、脇門を開けてもらい出入りするのだが、この出入りの許可証が鑑札なのである。
そこを心配した紳一郎様の問いに勝次郎様が応えた。
「そこは抜かりありません。殿(北町奉行・甲斐守様)から椿井家分を預かっております。我らの分は、義兵衛様の供をするように命じられた時に頂いている鑑札をそのまま使うように、との指示です」
それを聞いた御殿様は、直ぐ支度をするよう告げると、必要な手配を始め、瞬く間に終えると屋敷を出たのであった。
御門を通るため流石にお忍びという訳にはいかず、椿井家の家紋・裏菊文様の入った提灯に灯を入れないまま掲げ、足早に移動する。
徒歩の御殿様に4人の供・槍・騎馬は無しの略式以下の列とはなるが、それでも御用の要件は満たしている。
御殿様の替えの衣服を入れた挟み箱は義兵衛が担いでいる。
「これは、思ったより大事になりそうじゃ。だが、事の収拾に御老中様が動いてくれるというのは、案外僥倖になるかも知れぬ」
提灯を持って先導する紳一郎様に、御殿様がボソッとこぼしているのが聞こえるが、僥倖と言う内容がどこまでのことを指すのか、義兵衛には見当がつかない。
異例尽くめなのだろうが、ことがここに至ってはなるようにしかならないのだろうと義兵衛は内心開き直っている。
まるで勝次郎様に連行されたかのように、これまた異例のことだが、北町奉行所の正門は開かれており、一行が入ると閉じられた。
「ここから例の土蔵に入って頂きます」
周囲に見張り番がついた、奉行所に来る毎に押し込められる土蔵へ、もう何度目になるか定かではないが、御殿様と義兵衛達は案内された。
挟箱はもとより扇子以外は大小の太刀に至るまで、1階の階段脇の台へ置くことが求められ、それが終わってから2階に上げられる。
「昔、奉行所の応接でした機密の高い話が漏れた畏れがあって、それへの対応じゃ。ここであれば話が絶対外へは漏れぬゆえ安心できる。それに、もうここは大分手を入れて居心地もよくなっておろう」
土蔵2階の畳みの上で甲斐守様(北町奉行・曲淵景漸様)が既に待っていた。
「ご苦労じゃ。明日の朝まで待っておれんのでここへ呼び出した。もうじき主殿頭様(老中・田沼様)もお見えになられるであろう。その出迎えに席を外すがここでくつろがれるがよかろう。茶などそこにある道具で勝手になされるが良い。
それで、椿井家家老の細江殿は1階に降りて控えていて下され。勝次郎と安兵衛も1階に、事情に多少かかわっておる戸塚も控えてはおるが、余計な話はせぬことだ」
御殿様と二人きりになり静寂が広がった中、義兵衛は茶道具に手を伸ばした。
「お前では勝手が判らぬであろう。ワシがやろう」
お茶の作法など知らぬ義兵衛は助かったとばかりに手を引いた。
義兵衛と違い御殿様は手際よく茶器を使い、器用に茶を立てはじめた。
茶筅を前後に振っている姿は無心に見えるのだが、返ってそれが思考の何かを刺激したのか、御殿様はポツリと口にした。
「下で控えている戸塚殿は、以前お前と一緒に里へ行った奉行所の同心であったな。最初から関係する武家を集めようという訳か。
そうすると、今宵の話の狙いは興業にからんで出ると想定される飢饉神託への対応で間違いあるまい。では田沼様が召し上げた巫女の扱いまで、考えておかねばならぬのぉ」
関係という意味では、磯野壬次郎様もそうなのだが、除外されているということは、田沼派で興行で出る話の筋を固めておきたいということに違いない。
確保した巫女から神託と、それに付随する情報を得て、一橋派から距離を取った田沼意次様であれば、一橋家主催の興行に対し慎重になるのも頷ける話である。
義兵衛も考える範囲を興業の経緯だけという訳にはいかなくなっていると考えた。
「ほう、茶で寛いでおられたか。多少薄暗いとは言え、これはなかなか良い風情ですな」
薄暗くなった土蔵の2階に、手燭を持った曲淵景漸様を先頭に、田沼意次様・田沼意知様・甲三郎様と続いて上がってきた。
手燭から部屋の四隅にある行灯に素早く灯を入れると、部屋が明るくなり御老中の顔色なども窺うことができるようになった。
それとともに、この中では一番のペーペーであることに気付いた義兵衛は、少し後ずさりしながら這いつくばった。
「そのような真似はせぬとも良い。どうせ長丁場になろう。
ここは上下なしの茶室ということでよかろう。主計助殿、丁度の場所におるので亭主でよかろう。皆にも茶を振舞ってくれぬか」
庚太郎様は深く一礼すると、茶器を手にとり全員分の茶を立てた。
茶菓はないが、それぞれが自然に軽く草レベルのお辞儀などして、どうやらちゃんとした形ができているようだ。
皆が一服し、亭主の庚太郎様が茶器を戻すと、意次様が全体的な情報の確認から始めた。
「主計助殿。来月19日に行われる興業について、本日の勤め後に左近衛権中将様(一橋家治済様)から呼び出されておろう。そこで何を話したのかをまず教えてもらいたい」
庚太郎様は、順を追って屋敷で聞いた内容通りのことを説明した。
「うむ。その宴席にはワシと甲斐守も呼ばれておる。
主席は西丸(家基)様で、左(上位)席に宮内卿(重好、清水家当主)様・中将(治済)様・越中守(定信)様の順、右(下位)席にワシ(意次)と甲斐守(景漸)、そして異例なことに主計助(庚太郎)を入れるとのことだ。それゆえ、本日呼び出したのであろう。また、それぞれの関係する者を各自呼び寄せ控えさせておくべし、という但しを付けておる。それぞれ別に控えの間を用意するそうだ。ただ、関係するというのが、どの内容・範囲なのか、までは明かしてくれておらぬ」
「申し上げます。私が権中将様から受けた感触では、料理比べ興業の経緯を西丸様へ披露するだけで良いように思いました。
まず、なぜに私のような旗本が興業にかかわっておるのかという点の説明が要りましょう。その上で、卓上焜炉の小炭団を里で作らせ薪炭問屋に卸して利を得ていること、その利を年貢と相殺していることで足りると思いました。また、得た利を里の飢饉対策に投じておることまでの説明で充分かと思います。
それゆえ、八百膳の主人、萬屋の主人とその母を控えさせるつもりでおります。
ただ、私の里の状況については、以前越中守様に話したこともあります。そこで事前にお知らせし、越中守様からお話頂ける様にお願いしておくのも良いか、と考えます」
「ほほう、考えたのぉ。椿井家の里の様子について興味を持ったであろう越中守様に語らせよう、というのは良い考えじゃ。
ただ、おそらく、その経緯だけでは納まらぬ。根本には大飢饉の神託があろう。そこを詰めておかねば万全とは言えぬ」




