登戸村へ <C2497>
■安永7年(1778年)9月24日(太陽暦11月12日) 憑依253日目 曇天
江戸に向けて出立準備をしていると、館の爺・泰兵衛様が声を掛けてきた。
「忙しい時ではあるが、義兵衛、言っておきたいことがある。手は止めずともよい。耳だけ貸せ。
お前は知恵はあるが、それを人の機微に響くように使えておらぬよう見受ける。それゆえ、自らが駆け回って補うハメになっておるようにワシには見える。口から言葉が出る前に、一旦飲み込め。そして、知恵を相手に委ねるよう、相手がその知恵を核に動くように機会を窺え。
いろいろと経験を積まねば見えては来ぬのかも知れぬが、自分が動くのではなく人を動かすことを常に考えよ。人に頼ることを覚えよ。それから、この里の寺子屋で殿の嫡子に諭される教えじゃが『人の才能を見抜く力』と『その才能を伸ばすための支援』を心掛けると良い。
年寄りの繰言じゃが、覚えておいて損はなかろう。では、達者でな。殿には忠義を尽せよ」
勝次郎様、安兵衛さんと一緒に丁寧に礼を述べ、出立の挨拶をしてから館を出た。
まだ練炭を担った馬列が整う前の早朝の出立となる。
「昨夜も感じましたが、義兵衛様の先読みができるとは、館の御爺様は凄い方ですね。あのような方が里で仕切っておられれば、椿井家は磐石と思います。ただ、それは義兵衛様が色々と仕出かした、今を見てのことなのですが。あのような才がありながら、どうして椿井家が要職に就かれておられないのかが不思議です」
安兵衛さんがそう話すが、ちょっと異を覚え口にした。
「今回、たまたま木炭加工で儲かって、いや、収入があるので旗本としての体裁・面子はどうにかなる目処が立っています。しかし、経理の帳面を見させてもらいましたが、昨年の年末はひどいものでした。椿井家を維持するには、結構な修羅場もありそれを押さえるのに必死だったのではないのかと思っています。
私の実家の村もそうですが、取れ高の半分が年貢という取り決めがあっても、それを越えて取り立てをされています。例えば、寺子屋は御殿様のなさる事業となっておりますが、これを維持するための資金の幾ばくかは、村持ちとされております。最初は御館で全部負担していたのですが、今代の庚太郎様になってからどうしようもなくなり、各村に援助を頼んだという経緯が帳面から見えて来ているのです。
養父・紳一郎様は、江戸の拝領屋敷の相対替で借財を整理しようとしておりましたが、これが難航しておりました。今となっては、幸いなことに分不相応とも思える1000坪もの屋敷を、先祖代々受け継いできた屋敷を手放さずに済み、安堵しております。相対替しても、上手くいって実質500両程度しか手にできないのですから」
相対替とは、旗本同士で拝領屋敷を交換することを指す。
広さや場所などにより屋敷の値打ちに差があるのだが、そういった場合は金子で補うことになる。
椿井家屋敷の敷地は1038坪あるのだが、これはおおよそ2000~3000石の旗本が拝領する広さである。
そこで、半分の500坪程度しか敷地がない旗本の拝領屋敷と交換し、その差額で得た金子を使って借財を返すことを考え動いていた節があるのだ。
こちらから持ちかければ足元を見られることを懸念し、先方から話を持ちかけられる形にすることに腐心していたようなのだ。
ちなみに、買い求めると安くても1000両を積まねばならないが、売り出すと足元を見られて500両にもならない、というのがこの広さでの相対替の相場のようだ。
「しかし、500両も用意できる旗本は、そうそう居らぬのではないかな」
「持ちかけていた先の名は良く判っておりませんが『小普請から役寄合入りされるような家であれば相応の屋敷を欲しがるのでは』という紳一郎様の推定は、あながち間違ってはいないように思いました。やり方にもよるとは思いますが、かなり蓄財できるような役職もありましょう」
安兵衛さんの問いに、義兵衛は実も蓋もない答え方をした。
寄合入りする家は、禄が3000石以上か、布衣以上の役を継いでいる家である。
その意味では、椿井家は今回無役から勘定奉行支配・油奉行という立場となり布衣を許されていることから寄合入り出来る状態になったため、その地位に相応しい屋敷という格好になっている。
ともかく物品の購入にかかわる部門の役人は、利権にからむ商家からの挨拶などもあり、裕福になり易いというのも事実なのだ。
これまた、椿井家にはそっくり当てはまる図式なのだ。
実態をあけすけに言ってしまっている義兵衛に、安兵衛さんは苦い顔をして一言告げた。
「義兵衛様、館の爺様が『口から言葉が出る前に、一旦飲み込め』と忠告されておりましたが、お忘れですか」
今度は義兵衛が苦い顔になった。
それを見ていた勝次郎様は、陰鬱な表情から少し笑顔になった。
和気藹々としたやりとりをしながら歩く道だが、毎日重量物を担った馬が何往復もすることで、しっかりとした道になっている。
細山村と登戸村の間は約1里(4km)であり、早足で歩く義兵衛達にとってさほど時間もかからず、まだ朝の内に登戸村へ到着することが出来た。
「加登屋さん、早朝から失礼します」
「昨日の朝、細山村の荷を運んで来た者から、本日の早朝になると聞いております。
まず、この登戸で預かるのが当面400俵ということで、先に相談をしておりました。大所である糀屋の蔵ですが、1棟貸しはできないとのことです。ただ、事前の話通り蔵の1階半分にどうにか納まる250俵までであれば年1両で良いとのことでした。そして、炭屋では150俵程度ならなんとかなるそうです。こちらは工房の練炭を預かっているのと同じ枠内で済ませる、とのことでした。
それで、登戸では400俵ではなく480俵になるとも聞いており、増えた80俵分、あるいは増減した分全数を加登屋で引き受けることとします。
こうなった事情を聞かされたのでは登戸村(930石で内890石が代官所、40石が旗本・朝倉殿知行、他に約半石の長念寺領)としてもほっておけず、飢饉対策としての蔵を持つことを代官様へお願いするよう進めることとしました。
もし来年も買い付けの心算があるなら、その折は村の蔵の一部も使えるようにと思っております」
「おや、これは天領に義倉・社倉を設ける走りとなりませんか。
代官差配の在所についてはどうするのか決まっておりませんでしたが、旗本への御触れの草案では『知行地の100石につき5石を目処』となっておりました。代官差配の村でも同じということであれば、この村では50石(玄米125俵)程度を蓄えることになるでしょう。椿井家買い入れの籾米を預かるだけで御触れを満足できますね。
飢饉対策として蔵を持ちたいというお願いが、代官より勘定奉行へ伝わり、更に執政される方に届けば、どこの村でも義倉・社倉を設けさせる方向へ一気に傾きます」
安兵衛さんは、御奉行様から御殿様へ伝えるよう聞かされた件(第451話)を思い出したように口にした。
「いや、そう簡単にはいきません。理由は、まあ、その話は別にしましょう。
それで、加登屋さん。今回の籾米を買い入れでお世話して頂いた御代官様には、そのお礼も兼ねて訪問することがありましょう。その折にも、村で飢饉対策の蔵を設けることについて推しておきます。
でも、蔵の造作・保管する米の確保は村の負担となると思いますので、費用をどうするのかは充分考えておいてください。
先を急いでおりますので、糀屋さん、中田さんには挨拶もしておりませんが、よろしくお伝えください」
こうして登戸村での要件を済ませると、義兵衛達は渡し舟で多摩川を越え、江戸の屋敷へ向って行った。




