工房の実績に驚愕 <C2496>
工房の概況を把握した義兵衛達は館へ戻ることとした。
椿井家知行地の状況について北町奉行様への報告を安兵衛さんから任された勝次郎様は、ため息をつきながら歩いている。
「椿井家が30万石相当の大名に匹敵する勘定がある旗本など、どの顔で報告すれば良いのか見当もつきません。
御三家の尾張様62万石、紀伊様55万石、水戸様35万石でございましょう。それから、御親藩(徳川家血縁)の越前福井32万石がありますが、後は皆外様です。 加賀・前田家120万石、薩摩・島津家72万石、仙台・伊達家62万石、肥後熊本・細川家54万石、筑前・黒田家47万石、安芸・浅野家42万石、長門・毛利家36万石、肥前佐賀・鍋島家35万石、伊勢・藤堂家32万石、因幡・池田家32万石、備前・池田家31万石といったところでございましょうか。全部で15家でしょうか。
椿井家は500石として相応の家臣しかおりませんでしょう。石高では天地ほどの差がありますが、抱える家臣に禄を振り分けることを考慮すると、実質こういった大名を超えておりましょう」
勝次郎様は、奉行の子息という立場がかかわっているせいかこの手の情報を良く勉強しているようで、すらすらと藩・家・石高が出てくる。
「いえ、収入だけ見るとそうですが、その分いろいろと費用がかかっているので、実際の実入りはそれほどでもありません。春さんの報告の中にも、木炭の手当てなど相応する費目があったでしょう」
生産の中核は相変わらず子供達なのだが、その周囲で必要となる労力には本来農作業をする大人達を充てている状況となっている。
金程村では、通常は非生産人口となっている子供から遊ぶ時間を取り上げて働かせているため、その費用を計上しなくても良いという算段から始まった施策であるが、農業生産に従事する大人の時間を奪っている以上その費用は計上する必要も出てくるべきなのだ。
「それから、今の状況が一年も続くとは思っておりません。たまたま高値で練炭を売ろうとしているだけで、1個300文など続く訳がありません。木炭を加工して得られる付加価値は、本来もっと小さいのですよ。色々な所が真似すると確実に値下がりします。
そのことを知っているからこそ、助太郎や米さんは技術的に難しい強火力練炭を仕上げようとしているのです。そして量産化できれば、これは中々真似できないからこそ、金程村工房の切り札になると見込んでいます。
長い目で見て30万石相当を続けるという訳にはいきませんが、4000石の旗本に匹敵する収入を継続して得る仕組みを作ることが、まずは目標です。このことは既に御殿様に申し上げているので、達成せねばならないと考えているのです」
義兵衛がそこまで説明したところで安兵衛さんが声を上げた。
「椿井家の動向はこれで解りましたが、もう一つの旗本・杉原様の所も知行地・名内村で、こちらの工房からの指導で練炭を作っています。ここへの調べが抜けていることに今気付きました。
確か、名内村では日産5000個で、1個について40文が杉原様の取り分。黙っていても毎日50両が溜まっていきます。名内村や富塚村も潤うのですが、こちらは原材料や加工・運搬でそれなりの費用がかかっております。しかし、杉原様は直接名内村の工房にはかかわっておらず、それでいて何ほどの努力もせず年貢同様に懐に金子が積みあがる、というのはどんなものでしょうか。年換算でざっと15000両と結構な額で、さしずめ3万石の大名並になります。
実際に毎日5000個を納めるようになったのは閏7月からなので、ざっと概算すると今年の年末に約8000両(8億円)を萬屋から受け取ることになりましょう。まあ、義兵衛さんの言葉を借りると、来年も同じようになるとは思えませんけど。
いずれにせよ椿井家の半分となる石高230石の旗本にしてこの勘定ですから、杉原様を含め勘違いする輩が出るやも知れません。旗本の管轄であれば、椿井家同様の扱いとして若年寄・松平伊賀守(信濃国上田藩53000石藩主・松平忠順、この時点で53歳、上席若年寄)様に内情をお知らせしておけば良いのですが、年貢とは別口で8000両も潤う旗本と知ればどう思われるでしょうかね。確か伊賀守様が治める上田藩は内情が厳しく、17年前の宝暦11年(1761年)に大規模な百姓一揆を起しておりましょう。手っ取り早く収益を得た杉原様をどう思われるのでしょうかね。せめて杉原様が椿井様と同じように慎重に進める方であれば良いのですが。扱いを間違えるとやっかいなことになるのでしょう。まあ、これは小普請頭や目付の案件ですから、私達には直接関係はないと思いたいですね。
ああ、佐倉藩の堀田様のところもそうでしょうが、流石にそこまでは町奉行の管轄外ですよ。大名ですから御老中様の管轄でございましょう。田沼様が実態を把握されておられるでしょう。
ともかく御奉行御様への報告には、このあたりのことも含めておく必要がありますよ」
椿井家へ影響が及ばぬように御殿様は手を回しているのではないかと思っているが、養父・紳一郎様に確認しておく必要がある事だと義兵衛は認識した。
幕府内の政治・勢力に関する部分は余りにも複雑で、義兵衛としてはあえて目を瞑っているつもりなのだが、安兵衛さんの話を聞いてしまっては内心穏やかではない。
人の嫉妬はいつの時代でも厄介なものなのだ。
いずれにせよ勝次郎様は、一段と重いため息を吐き、足取りが更に重くなってしまっている。
金程村から細山村の館まで半里(約2km)程の距離なのだが、四半時(30分)もかかってしまった。
「随分と遅かったではないか」
館に戻ると泰兵衛様が待ち構えていた。
「はっ、明朝に登戸へ向う算段であったため、実家と工房の実情を存分に確認することができました」
義兵衛は、金程村の稲作に対して行われた施策、大丸村での薩摩芋の状況、工房での生産状況と新規に量産を予定している強火力練炭の概要などを簡潔に報告した。
横では、勝次郎様が御奉行様報告の参考にするためか、一心に筆を走らせている。
「工房へ何かと便宜を図って頂いたこと、助太郎に代わりまして深くお礼申し上げます。泰兵衛様の御助力が無ければ、今は有りませんでした。助太郎をはじめ、工房の組長達が大変感謝しておりました。
また、籾米の搬送についても、館からの指図通り人を出せると聞きました。
ただ、買い付けた籾米を当家知行地の下菅村の蔵へ納めるよう最初から交渉すべきであった、と私の考え不足が良く判りました。
下菅村は是政村の対岸から少し下流となりますが、そこであれば金子を払う事無く時間を掛けて館や他の3村へ運ぶこともできたと思いました。先のことを考えれば、下菅村で多摩川に近く、そして氾濫の影響を受け難い場所に、買い付け用として3~4棟の200石収納の蔵を設けておくのも良いかと考えます」
「うむ、ただ下菅へまとめて蔵を作る件は難しかろう。下菅村には宮下・塚戸・馬場という3集落から成っており一枚岩ではない。今の代表は宮下集落となっておるが、多摩川に近いとなると塚戸であろう。ただ、塚戸(現:稲田堤駅に近い府中街道の交差点に名称が残る)は川の氾濫で集落全体が浸かったこともある。まずは場所の選定が難しい。
それから、今秋に下菅村のどこに蔵を建てるかについては、ひと悶着があった。結論として、今回は中断させたが、まずは宮下、次に馬場、最後に塚戸と3年掛かりで作ることで決着を付けている。そういった経緯もあり、どこかの集落にまとめて新設するとの案は、下菅村内、いや知行地内全体の分裂を招く。
それに、来年秋にも買い入れをするかどうかは見えておらぬのであろう。来年・再来年と、どの村でも金程村のように米が実れば、無理に買い入れせずとも飢饉対策用の米を準備できる可能性もある」
泰兵衛様に諭された義兵衛は、その通りだと納得し、報告は終了した。
「椿井家は知行地に素晴らしい家臣をお持ちですね。これは是非とも御奉行様へ報告せねばなりますまい」
安兵衛さんがそう呟くと、勝次郎さんは小さく唸った。




