薩摩芋と、変わってきた工房 <C2494>
「それから、大丸村の方はどのような状況でしょうか。
御殿様が籾米500石を米問屋から買い付けており、10月1日に大丸村の川向にある是政村で引き渡されます。蔵渡しなので、そこを早く空にして返さないと蔵の賃料がかかります。大丸村の円照寺や名主の芦川さんに場所を借りる話はどの程度できておりますでしょうか」
「館の爺様(泰兵衛様)からすでに話は聞いており、ワシから両方に話を通しておる。6月(320話)にも、お前があらかた話をしておろう。大枠はそのままで、利用する時期や期間、金額、不足する人頭の手当てを詰めたに過ぎぬ。
また、里の4村の男共だが、1日には大丸村に総出して集まることになっておる。下菅村は、そのまま多摩川へ出て府中街道に沿っていけば大丸村に近い。今回の木炭加工や収量、飢饉対策でも遅れを取ったことから、今回の籾米運搬には力を入れることで評価を取り戻そうとしておるようだ。この村の男共は皆荷運びをするが、女共も一緒に出て炊き出しなども行う段取りと聞いておる。
米俵が1850俵とは思ったよりも多いが、是政の宝珠寺(西蔵院)から多摩川を川船で越えて大丸村に運び込む作業は、天気にもよるが、1日半も見ておけば足りるだろう。いずれにせよ今回の輸送は館の爺様が仕切っておるゆえ、米を買い付けたお前が出張ることもあるまい」
石高350石の下菅村(村人口200人)は、大丸村に一番近い所でもあるため、村の総力を上げて輸送に従事してくれるようだ。
よくよく考えてみれば、大丸・登戸の中間に近い位置でもある。
細山村に持って行くためには山越えせねばならない、という点を除けば、一旦全数をここへ収容するという考えもあったのかも知れない。
ただ、今は下菅村に肝心の蔵が出来ていないので採用できないが、もし来年以降に蔵が出来ているのであればそれも一つの手になるに違いない。
父・百太郎からの話を聞き、安堵している義兵衛に兄・孝太郎が話しかけてきた。
「大丸村で栽培を始めた薩摩芋の件だが……」
種芋からどんどん出てくるツルを摘んで、これを苗として大丸村で栽培させていた。
全部で100本程度のツルを畝に植え秋口までに70~80本程度のツルが枯れずに残りこれを収穫したところ、ツルあたり4~6個、全部で400個ほどの芋、総量は1俵ほどの芋が収穫できたとのことだ。
ただ、金程村での収穫は悪く、折角できても半分程を腐らせてしまった。
「大丸村では、さほど苦労せずに16貫(60kg)もの芋が取れたことから、半分を来年の種芋として貯蔵し、残り半分を長期保存するための加工方法を知るために使うことを考えておる。
種芋の保存方法は青木昆陽先生の『蕃薯考』という資料から抜粋したものを見ておるので、それを試すつもりだ。しかし、食品として加工する良い方法がなかなか見つかっておらぬのだ」
蕃薯考は、薩摩芋の形・種類・味という紹介部分と栽培法・貯蔵法といったどちらかと言えば栽培を奨励するための書籍であり、これをどう食べるかという観点での記述は非常に薄い。
まだまだ新しい物であるが故に、百姓がこれをどう料理するのか、という点で情報が不足している。
「そうですね。汁物の具材にするとか、まぜご飯にして炊くとかが普通ですが、そのまま弱火で焼いても良いのです。
しかし、飢饉に備えるのであれば保存食に加工するのが良いでしょう。そのままぶつ切りにして天日で干すという方法と、蒸してから皮を剥ぎ薄切りにし同じく天日干しする、という方法があります。水分を飛ばしてカビを生え難くすることが肝心となります。干して作ったものを煮たり焼いたりして食べるのが良いと思いますが、どう調理すればよいかは実物を作ってから加登屋さんなんかに持ち込んでみると良いと思いますよ」
「そうさな、それなりの本数があるので色々と試すことはできそうだ。金程村はどうも土が合わぬようなので、ここでは作らず、大丸村で大々的に作ることにしたいと考えている。とは言っても、色々と協力した挙句、収穫した薩摩芋の1割程を貰うだけなのだがな。芦川さんの所の感覚としては、荒れ地に余計な手間を取られるだけで何の得にもならない、という所だろうか」
百太郎が孝太郎の言葉を遮った。
「いや、孝太郎。この薩摩芋は荒れ地でも育つからこそこの天候不順な時にでも稲に代わって収穫できる作物なのだ。『蕃薯考』を見ても救荒作物の扱いであろう。大飢饉の噂、これについても一通りの説明はしておるが、万一の作物があるのと無いのは大きな違いになる。芦川貫衛門さん、いや今は代替わりして貫次郎さんであったが、そこにはワシから薩摩芋の必要性について話をして判ってもらっておる。だから、河川敷の荒れ地の一部を好きなように使わせてもらえたのだ。実際に、よそ者の扱いではなかったであろう。
大々的に薩摩芋を作っても良いのだ。なにせ、薩摩芋は手がかからぬ上、年貢として納める必要がない。手元に丸々食料が残るというのは有り難いことなのだ。こちらが新しい蔵を建て少しでも米を蓄えようとしている動きを見て、芦川家でも新しく蔵を作るように言っておる」
「お話は判りました。今般、大丸村の円照寺と芦川家の蔵を籾米の一時置き場としますが、75俵程度はそこに留め置くという話を聞いております。最終的には飢饉の年まで預かってもらい、その時に名義を換えて円照寺と芦川家のものにする、という考えでよいかと思っております。具体的には現場で館の爺様から指図があると思いますが、おおむねそういった話となっているので、関係を円滑にするのに丁度良い機会と思いますよ」
兄・孝太郎は了解し大きく頷いた。
「それから、義兵衛。この米の始末が終わって寒さが本格的になる前に、江戸から一度お前の嫁、いや式前なので婚約者をこの村に連れて来い。かかあが一目見ておきたい、皆もどのような娘か見たいと言っておったぞ」
義兵衛は思わず真っ赤になってしまった。
華さんからも『一度村を見てみたい』と言われていた。
そして、多少でもゆとりが出来る時期となると、10月の興業後位しかない。
それ以降の11月になると、七輪・練炭の需要が逼迫してきて、萬屋はとんでもない状態となるのが見えているのだ。
「はい、殿の許しと江戸の萬屋さんの都合を聞かねばなりませんが、近々連れてくることに致します」
そう約束すると、父母への挨拶もそこそこに、義兵衛等は逃げるように実家から工房へ向った。
工房の門前で待っていたのか、春さんが大きく手を振って義兵衛を呼んでいる。
その声を聞きつけたのか、わらわらと工房の中から人が出てきて門前に並んで出迎えてくれた。
「今くるか、と、朝から待っておりました。もう昼飯時ですよ。さあ、新しい工房へどうぞ」
助太郎の指し示す方向を見ると、義兵衛と立ち上げた工房とは違う新しい小屋が何棟も出来ている。
「薄厚練炭の量産に注力できるように、昔の工房の中を整理しました。そして、まず粉炭を作る所を分離して小屋を建てました。粉炭作りは、子供等ではなく、大人に出張ってきてもらっています。木炭の搬入と練炭の搬出も、馬を扱うこともあって、大人達に任せるようになりました。こういった時に、まがりなりにも武士に取り立てられていたので助かってます。
それから、もう一つが、私の常駐する新しい製品を研究する小屋です。工房の奥にあった応接や工房管理の機能も、こちらに移しています。
それ以外にも、工房の裏手に、寺子屋を引っ張ってきました。
ここで働く子供等が寺子屋のために、毎日細山村と往復するのが時間の無駄と思い、御館に陳情しました。そうしたら、寺子屋をこちらに移すだけでなく、往復が遠くなる下菅村の子供等が泊まれる寮も作られました」
この金程村も工房を中心に色々と変わってきていることが良く判った。




