正条植え <C2493>
■安永7年(1778年)9月23日(太陽暦11月11日) 憑依252日目 晴天
昨夜、籾米を里に運び込む段取りについて、館の爺・泰兵衛様が指揮を取ると宣言し、義兵衛の大きな心配事を取り除いてくれたため、大変良く寝ることができた。
しかし、義兵衛がこの里ですべきこと、帰路で確認せねばならないことなど、まだ沢山残っている。
手始めに、金程村の工房や、この秋の村の収穫状況を知りたいのだ。
「昨夜は『籾米をどう運ぶか』についての話しかできておらぬが、朝餉の席では里の状況について教えておこう」
できれば今日の内に登戸に行き、蔵の話に決着を付けておきたい義兵衛にとって、爺・泰兵衛様の提案は願ったり叶ったりだった。
「今年は天候不順であったものの出来高からするとほぼ順調であった……」
石高190石の細山村は、収量が若干減り186石であり、年貢の内80石(200俵)は玄米で館に収納し、残りの年貢15石・籾米52俵を細山村蔵へ納めさせた。
同じく石高190石の下菅村も、収量が若干減り188石であるが、年貢としての95石・籾米330俵を下菅村蔵へ納めさせた。
石高70石の金程村は、収量が増え80石と例年より10石も多く取れ、年貢35石・籾米123俵を新設の金程村蔵へ納めさせた。
石高50石の万福寺村は、収量が大きく減り42石であったが、年貢25石・籾米86俵を万福寺村蔵へ納めさせた。
ただ、細江村については買い入れた籾米の内280俵を館から細山村蔵へ入れ、年貢分は全て村に作った蔵で保管する形とした。
今回各村と館に新設した蔵はどれも500俵程度蓄えることを予定していたのだが、実際に間に合ったのは館の蔵1棟と金程村の蔵と2棟だけであり、当初の計画であった各村に蔵を作ることはまだ完了していなかった。
そのため、各村の蔵に納めるとは言っても実際には各名主の年貢蔵から引き上げることをせず、帳面上で済ませていた。
江戸の屋敷で聞いた話とは若干様相が違うようだが、文で伝わる綺麗事とは違う現場の様相とはこんなものだ。
「村の蔵には例年より遥かに多い米が残っており、そのことに百姓達は喜んでおった。年貢米は自分達の使える米ではないと判っておっても、身近に収穫したものが置かれていると嬉しいものなのであろうな。まあ、秋になると必要な分を残し、井筒屋が皆浚っていって空になった蔵しか見ておらんかった故、ワシもその気持ちは判る。
それから、今回の木炭加工で得られた金子について、各村に作る蔵の代金を館で全部負担し、更に工房関連の仕事への協力・動員の具合を勘案して各村へ下賜する方向としておる。そして、村と館で1500石・籾米で5300俵を蓄えられるようになるまで蔵を作り、籾米を買い入れ続けることになろう」
里で3年分の米を蓄える方向で話が付いているようだ。
この目標が果たされてから、年貢の割合を見直すことになるに違いない。
ただ、手元の概算からすると、蔵が満杯となる前に天明の大飢饉が来るのだが、今詳細を計算する訳にもいかない。
「ところで、金程村で収量が増えておった件なのだが、聞くところによるといろいろと工夫があったようで、これを里に広げよと命じておる。伊藤家は実家でござろう。そちが何かしたのかな」
「はっ、実家の兄に種籾の効率的な見分け方を話しておりますが、私が具体的に示唆したのはそれだけです。
多分それ以外に何かしたのではないかと思われます。この後は実家に寄り大丸村との遣り取りについて聞き取りをしますが、その折に確認します。また、その後は木炭加工の工房に寄り、状況を確認したいと考えております」
実際に塩水法(塩水選)での収量増加効果は1割程度との覚えがあるので、70石が80石と10石も増えるのは不思議なのだ。
水車の構想をして、貯水池にするため手を入れてしまった田も一枚あるから、実質の田は少し減ったはずであり、更に子供の手が皆工房に取られたため農作業の手は足りなくなるはずなのだ。
そして、薩摩芋の件があるため、肝心の兄・孝太郎などはおそらく大丸村に入り浸っていたに違いない。
そうするときっと他に何か工夫した所があると義兵衛は見ていた。
「その後一度館に戻り報告後登戸村に行きたいと考えております」
「うむ。しかし、それでは時間が足りぬであろう。一日日延べとはなるが、夕刻までにこの里での聞き取りを済ませ、今夜は館に泊まるが良い。明日早朝に江戸へ出立するのがよかろう。登戸へは今日の午後便でその旨を炭問屋の番頭に伝えておこう」
館と金程村は近いとは言え、色々と確かめておきたいことを考えると、確かに昼前にここへ戻れる感じではない。
「はっ、そのように致します。では、まずは伊藤家へ向かいます」
懐かしい道程をたどって実家へ向かう。
思えば、ほんの半年ほど前までは館に出向くことさえ大層な出来事に思っていた。
それが、今では江戸の屋敷はもとより、御奉行様や御老中様、白河藩松平家屋敷などとんでもない所に出入りしてしまっている。
そういった江戸の建屋からみると、この里の館ですら田舎の百姓家にちょっとした門構えがついた代物に過ぎないように感じている。
ましてや、実家・伊藤家は薄暗い納屋であったように見えてくる。
もっとも、新しく作られた蔵だけは、江戸で見る蔵と同じようにどっしりとした外観であった。
実家では訪問する連絡が行われていたのか、実父・百太郎を含め一家総出で出迎えしてくれた。
「健吾で何よりなことだ。江戸での噂はこちらにも聞こえておるが、勤めはどうじゃ」
「御殿様始め、皆様には大変手厚く支えてもらっております……」
形ばかりの挨拶を父、兄、母と交わし、新しく供となった勝次郎様を紹介し終わると聞き取りに入った。
「まず、今年の稲の実りのことです。何か工夫なされましたか」
兄からは塩水法で籾の選別を行ったこと、父からは田植えの時に行った新たな工夫の話を聞き出した。
「ほれ、稲も草と同じであまりにも密に植えると充分育たぬことがあろう。その理由の一つに、稲が育つ時期に陽の光が充分当たらぬという話をお前としておったであろう。
そこで、ワシの家の田を使って新しい試みをした。稲が育った時に隣にある稲の葉で日陰にならぬように、南北方向は互いに半尺から1尺(約15cm~30cm)程度間隔を空けて揃えて一列に植えてみたのだ。列の間が均一であることから、中耕除草や溝切り、雑草取り、果ては稲刈りに至るまで簡単な道具を使って手間を掛けずに済ませられることに気付いた。来年はこの列の幅を統一することで更に便利な道具を作って小作に与えることにしたい」
これは稲作の作業効率化でいつも筆頭に挙げられる『正条植え』に近い試みであろうと考えられる。
太陽の光だけでなく風通しや、それまでなかなか行えなかった田の中央の雑草取りなどが容易に行えることで、稲の生育が著しく向上する。
並びを東西一列に揃え、南北に間隔を取るという方法は、この時代にあっては画期的なのだが実に惜しいところまで来ている。
「実は金程村だけが収量を増やしており『特別な方法があるのであれば他の村にも広げたい』と館の爺様が言っております。後ほど下達されるとは思いますが、是非とも今年の取り組みをまとめて、里の他の村にも広げて頂きたくお願い致します。
それで、先ほど話された内容は『正条植え』と呼ばれる方法で、代掻きした田に道具で線を引いたり、印が付いた縄を張って目印に従って苗を植えたりするものです。縦横に半尺間隔で苗を植えることで、方位を気にせず田植えができますよ。
標準寸法を決めると、一度に複数の条間の雑草を処理する道具など作りやすくなります。
ただ、この田植えが一番大変なので、ここに何かの道具を使えると随分と楽になると思えるのですが、作るのはちょっと難しいかな」
百太郎は顔には出さないものの、義兵衛が一定の間隔を空けて稲苗を植える方法を既に知っていたことに驚いている様子だった。




