登戸で相談後、館へ帰着 <C2492>
義兵衛ら三人は一休みしていた三軒茶屋の茶屋を出て、約2里半(10km)の所にある多摩川縁の猪方村を目指す。
猪方村から多摩川の河原に降り、渡し船で登戸村へ向う。
台風の季節、奥多摩の山に大雨が降ると多摩川は水嵩を増し、濁流となって岸辺の村・田畑を押し流す暴れ川となる。
※ 一級河川に相応しい堤防が完備されるようになった近年(昭和49年、1974年)でも、この近辺で台風による増水・洪水・堤防決壊などで民家が押し流されるような災害が起きている。ましてや、江戸時代であれば、このような水害・天災には抗うこともできなかったに違いない。
多摩川を越えた頃には昼遅くになっていたが、登戸村の加登屋に顔を出した。
「珍しいことに、義兵衛様ではございませんか。てっきり江戸詰めばかりと思っておりましたので、大変驚いております。
江戸・愛宕神社の料理比べ・男坂での水運び興業の噂はこの界隈でももう噂になっておりますぞ。もっとも、旗本・椿井の殿様や義兵衛様の噂や萬屋さんのことは話には上がってきておりませんがね。相変わらず隠れて進めておるのでございましょう。炭屋の中田さんからは何かと細かく聞いておりますよ。義兵衛様とのかかわりを喧伝することのないように、と御奉行様からお達しがあったとか。
それで、今回は何があったのでしょうか。随分と険しい顔をしておられますよ」
義兵衛は、挨拶もそこそこに、10月に買い入れた籾米を里へ運び込む算段をしていること、この登戸が輸送の中継地となることを話した。
「以前、登戸村の糀屋さんの蔵で米50俵を置く場所を借りるという話をしておりましたでしょう。確かその場所借り賃は年1両だった記憶しております(56話)。あれから半年経っておりますが、その話がいよいよ本格化しており、50俵どころか蔵を丸ごと借りねばならないような事態となっているのです。同じ割合として蔵を年10両程の金子で借りることができないか、問い合わせてもらえませんでしょうか」
蔵の空場所を活用するのと、蔵自体を貸し出すのでは雲泥の差があるのは承知しており、話が通るとは思えないのだが、駄目元でも先方に確かめてもらうしかない。
なにせ、府中宿の周囲の村にある寺で引き渡された場所の蔵では、米問屋からの入れ知恵か、住職に足元を見られたのか1棟1日1両という金額がふっかけられているのだ。
交渉する時間が惜しい今は、本音を話して無理を通してもらう必要があると義兵衛は考えた。
「以前、近く大飢饉が起きるというお告げがある、という話をしたことがありますが、今回の籾米の買い付けは飢饉が起きた場合のお助け米として使う分として確保する、という目的があるのです。お借りした蔵に置く籾米は長期に渡って保管する方針で、場合によっては、大飢饉となって登戸で餓死者が出ることが免れぬ事態となれば、我が殿はこれを開いて施すことも考えておられるようでした。
もちろん、薪炭問屋の蔵も借りておるのでそこを主体に籾米を置きますが、分量がありますゆえそこには納まらぬと見ております。
これから炭屋の中田さんの所で受入可能な量を確かめ、その後は細山村の館へ向う予定です。糀屋さんの返答は、明日以降に私が江戸へ戻る時までで結構ですので、訳を話しておいて頂けませんか」
「承知致しました。それで、登戸で保管する籾米は炭屋の蔵で預かる分も含めいかほどになりましょう。それを聞いておかねば、まとめることも出来ません」
「籾米500石分、1850俵を買い付けております。それを里へ運ぶつもりですが、里の蔵に入らぬ分を登戸に留め置きます。おそらく400俵程と考えております。ただ、来年以降はまだ見定めておりませんが、里の蔵の準備具合にも依りましょう。そのあたりは、里を仕切っている爺と相談をせねばならないのです。
まあ、そういった里での相談事があるので、急ぎ館へ向っている途中だったのです」
加登屋さんは義兵衛の応えに納得したようだった。
「確かに承りました。炭屋さんと糀屋さんに図っておきましょう。
それと、どうせ同じ話を中田さんにもなさる御積りでしょう。それならば最初から炭屋の中田を呼びつけてから話されればよろしかったものを。どうせ同じ話をなされるのであれば、こちらで話しておきますので、このまま直接細山村へ向われては如何でしょう。今から出立すれば、まだ少し明るいうちに村には着けましょう。月も出ない上この小雨の中、いつもより暗くなるのは早いですよ。
随分と険しいお顔をされていた事情もすっかり判りました」
どうやら気を使わせてしまったらしい。
義兵衛達は加登屋さんの勧めに従い、炭屋には立ち寄らずに細山村への道を進んだ。
果たして、周囲が真っ暗となる前に、細山村の館に辿り着くことができたのだった。
館の門番の所では、義兵衛はともかく同行の者を認識できず大層怪しまれたもの、結局は中に通された。
まずは台所脇の部屋で3人分の軽く遅い夕食が出され、それが済む頃合いには義曽祖父の泰兵衛様が待つ座敷に案内された。
義兵衛は帰着の挨拶をするとともに、同行している勝次郎さんを町奉行の次男坊と紹介した所大層驚かれてしまった。
「これは、席次が間違っておった」
泰兵衛様はそのように言って席を立とうとしたが、安兵衛さんがあくまでも『義兵衛の付き人という位置なので主客ではない。事情を察して欲しい』と説明し、そのままとなった。
「此度帰着して行う相談に同席することが殿の承知の下ということは、ここでの話は御奉行様に筒抜けとなっても良い、ということなのでしょうな。お上に隠すようなことは御座いませぬが、ここで聞いた話から、無いことを有るように言われては、とてもかないませぬが、そのあたりはいかに」
お上が椿井家内の失態を探し、この里を取りあげることを心配していることがひしひしと伝わってくる。
確かに、俄かに裕福となった里の扱いを考えると、そのような見方も出てくることは否めない。
「御三卿の方々や御老中様にも支持頂いておりますので、今の所懸念する必要はないと思っております。籾米の買い集めについては、勘定方から関東代官様、お世話役の手代・高木様にまで話を通してくれておりました。そのため、買い取り分については玄米でなく籾米のままという所に手間がかかったものの、集積については特に問題なく行われたようにございます」
「米は御公儀勘定の基本であろう。ワシにはそれを『途中で金子に替えて納める』というやり方がどうにも腑に落ちん。御公儀の中に異を唱える者もおるのではないか、と気になっておる。
しかし、もう買い入れまでしてしまっておるのでは、後の祭りであろう。この上は集めた米をどう持ってくるか、ということでの相談であろう。この件は、息子・紳一郎から『手配しておくように』との依頼が来ておった。
運ぶのは500石であろう。通常の玄米であれば、1250俵でこれを想定しておった。だが、籾米では4割方も嵩が増そう。今年、里で新に作った蔵は玄米500石を買い入れる前提で作っておったので、籾米の俵であれば、収まりきらぬのは道理じゃ。このことは急報したので江戸の屋敷で聞いておろう。それで、買い入れた籾米は何俵じゃ」
義兵衛は1850俵になることと、10月1日に大丸村向かいの是政村・宝珠寺(西蔵院)で全数一括引き渡しとなり、以降蔵の借料が1棟1日1両とふっかけられていることを説明した。
その上で、大丸村の円照寺の蔵や境内、名主の芦川家の蔵を借りる算段をしており、まずはそこまで短期間で全数量を運ぶことを最優先として考えていたことを話した。
以降は、時間をかけて山越えして里まで運びたいと思っていたが、紳一郎様から『登戸経由の方が良い』と示唆され、登戸で蔵を借りる算段をしてきたこと、里に収納できない分は借りた蔵に留め置き、その米で賃借料を支払っても良いと言われたことを話した。
「登戸で借りた蔵に、長期に渡って籾米を置き、それを蔵の賃借料にあてても良い、ということでした。これは、預けた時には椿井家の籾米ですが、飢饉の折にはこの米を登戸村での施しに当てても良いということ、と判断し話を進めております」
「うむ、よう気付いた。殿はそのように考えるお方じゃ。間違えてはおらぬ。
大丸村の芦川家と円照寺であれば、金程村名主の伊藤家嫡男・孝太郎が足繁く通っておったようじゃ。伊藤家は当主の百太郎も大丸村に縁があるようで、その伝手で安価に場所を借りれる、というのであればそれで良い。
1日は里から総出で是政村と大丸村間で米俵を運ぼう。天気と渡しの具合次第だが、2日も見て置けば良い。そこから後は、ワシが指揮を取るゆえ、心配せずとも良い。それで、大丸には75俵(玄米換算20石)、登戸には480俵(玄米換算130石)ほど置くこととしてはどうかな。帳面上では45俵ほど収まらぬと見えるかも知れんが、是政村・宝珠寺に2日間の賃借料として30俵ほど渡して済ませればよい。後の15俵(玄米換算で4石、金子4両相当)は渡し舟や臨時の人足費用に充当することになろう。
収まりきれぬ分は里へ運び込めば済む。蔵だけでなく、名主の家の中で預かればよかろう」
妥当な内容で義兵衛は安堵した。




