里への出立と塩水選の効果 <C2491>
「それはそうと、八百膳での寄り合いはどうであったか」
籾米に関する報告が先になっていたため、昨日の興業に関する寄り合いの報告を抜かしていた。
仕出し膳の興業は、米の確保より優先順位は落ちるものの、椿井家として大きくかかわっており、動向が気になっているのは確かなのだ。
もっとも殿が主体的に動くことはないので、椿井家を支える重臣としての関心が御城勤めに比べて多少低いのは仕方無い。
義兵衛は、西丸様(徳川家基様)の参加を前提とした御武家様中心の宴と、遊びとしての興業を分けて開催する案が出ており、この方向で進める方向となったことを話した。
「ただ、具体的な『いつ』『どこで』など基本的なところまでは詰められておりません。これらの話がまとまる前に寄り合いを抜けました。御武家様側の宴については、料亭・八百膳が主導すればどうにかなると見ております。
報告が漏れておりましたが、井筒屋が私に声をかけたのは、興業の席を願ってのことでした」
義兵衛はことの顛末と、萬屋・千次郎さん預かりとなって決着したことを説明した。
「物事は最初が肝心じゃな。最初に席を融通したことに義兵衛が大きくかかわっておったことから『同じように』と思ったのであろう。新に始める何事にも最初があろう。それが前例となって『次も同じように』と思うのは常じゃ。
義兵衛がかかわることは、この初手が多かろう。上手くいくとどうしても初手と同じと思ってなかなか本筋に戻せぬことも起きよう。それゆえ、本筋を意識することを忘れるな。打つ手が5年・10年先にどうなっているか、常に念頭に置くことを忘れるなよ。
殿が示唆された運搬途中で使う蔵だが、使用する対価として籾米を渡しても良い、とも考えておられるようだ。そういったことも勘案してことを進めよ」
養父ならではの有難い意見をしっかりと受け止め、義兵衛は今後の準備を進める。
9月30日には運搬の手はずを終えて府中宿へ泊まり、早朝引渡し以降に即座に籾米の搬出に取り掛からねばならない。
養父・紳一郎様からの指図の通りとすると、交渉をしながら里へ戻る途中で一泊、細山村の館で一泊することになりそうだ。
籾米1850俵は重量にして29600貫(=111t)にもなる。
人は1俵(16貫、60kg)をどうにか担ぐことはできるが、これを担いだまま2里(8km)も歩くのは流石に難しい。
随所に米俵の中継所や休憩所などを設けて、延々と運んでいくしかない。
義兵衛はこの2里の中に山越えという更なる無理を重ねようとしていたのだが、その路線が平坦となったことで勝算が見えてきた。
結果として、2里の距離を1人1日1俵換算から2俵換算と考え直して、実際に出来る数値として見積もることができるようになったのだ。
その結果、是政・大丸・登戸・細山を3本の線で繋いで、延べで約3000人日もの稼働が必要になる。
そして、これを更に馬で補うことで軽減させるというのが紳一郎様から示唆された考えなのだが、実の所これは大した戦力にはならない。
現在、里と登戸村の間には3疋の馬が毎日2往復しており、木炭と練炭を運んでいる。
それとは別に江戸と里をつなぐ馬便が隔日に往復しているが、これは運搬から除外したほうがよかろう。
馬1疋で一度に運べる最大量は3俵で、3疋を使って1日18俵でしかない。
予備として休ませている馬は1疋だが、これを動員しても1日24俵。
しかも、登戸・細山の間だけになる。
結局の所、いつまでに運び終われば良いのか、幾らまで銭で人足を雇えば良いのか、ということに過ぎない。
100日かけて良いのなら馬での輸送だけでよいのだが、是政村の宝珠寺からは速やかに運び出すことが要求されている。
そして、経路途上の大丸・登戸の集積所にかかる費用がどうなるかにかかっているのだ。
それを踏まえた上で、今年蔵に納めることができない籾米があることを、その籾米を上手く使えと言っていたことを理解した。
ここまで考えると、紳一郎様の指図通りではなく、人の頭数を手配しているであろう里の館の爺・泰兵衛様と先に相談しておく必要があることに気付いた。
江戸の屋敷から細江村の館までの行程は概ね1日かかるので、ここでゆっくり構えている訳にはいかない。
紳一郎様に、まずは里の泰兵衛様との打ち合わせが必要との旨を申告し、屋敷を飛び出すこととなった。
幸い、安兵衛さんが屋敷の門前に丁度到着した頃となった。
「これは急なことですね。ちょっと門番の方を借りますよ」
安兵衛さんは椿井家の門脇に控えている下人を借り、奉行所への伝言を持たせて走らせると、当然といった表情で義兵衛に同行してきた。
小雨が降る中、一行3人は多摩川を目指して速足で歩き始めた。
いつものように大山街道を進み、道玄坂を登ると江戸市中との境(朱引)である目印となっている物見の松の横を過ぎる。
登戸へ向うための津久井往還(現・世田谷通)が大山街道(現・国道246号線)と分岐するあたりにある茶屋で一息入れた。
この分岐(追分)に大山参詣者相手の茶屋が信楽(石橋楼)・角屋・田中屋と三軒並んでいたことから、近隣の円泉寺・太子堂より三軒茶屋という通称が流行り始めていた。
「前にも申しましたが、江戸を外れると殿様への毎夜の報告が無くなるので実の所ほっとします。夜は義兵衛様が就寝する時刻に寝ることができ、朝も同時刻に起きれば済むというのが、とても有り難いのです。勝次郎様も、そろそろ実感してきているのではありませんか」
小雨を避けて茶屋の中で小休憩している安兵衛さんがこう呟いた。
「それよりも、細江紳一郎様が『金程村の実りが良い工夫』として言っていた『塩水選』という言葉の方が気になりました。これも義兵衛さんがらみではないのですか」
「それは、確かに私が実家の兄に伝えた方法です。稲の苗を作る時に使う種籾ですが、実の詰まったものを選別する方法です。
別に塩水にこだわる訳ではないのですが、盥に水を張り種籾を入れ、底に沈んだ籾だけを使うのです。種籾を逐一見て選別する必要がないので、簡単に良い種籾を得られます。ある程度の濃さの塩水にした方が、品質が揃った良い種籾を選別できます。でも、水だけでも良いのですよ。むしろ、塩水に漬けた後の洗浄が省ける分、水だけの方が楽かも知れません。
この方法で選別した種籾を使うと、多少収量が増えると思っていたのですが、実際に効果があったようで嬉しい限りです」
義兵衛はあっさりと説明したのだが、実はこの塩水選種法という技術は、明治15年(1882年)に福岡県農業総合試験場の前身である福岡農学校教諭・横井時敬氏が考案したものである。
明治30年頃に全国的に広がった、当時としては革新的な農業技術で、この時代で行うというのは110年ほど先取りしたことになる。
ちなみに、濃い塩水に多少の種籾を入れ(当然、全部浮く)、そこに水を徐々に足し種籾の半分以上が沈み始める濃さに整え、この濃さの塩水に残りの種籾を入れて浮いている種籾を不稔種子として取り除く方法である。
ちなみに、塩水の濃度は20%、比重1.13が良いとされているが、水だけでの選別でも結構な量の種籾が浮き上がり、ある程度の選別が出来る。そのため、まず真水で選別し、そこに規定量の食塩を加えて更に浮いた種籾を取り除くという二段階を踏む方法が一般的となっている。
「これはまた何と言うことを……」
安兵衛さんの驚く表情を見て、義兵衛はやらかしてしまったことを悟った。
「いえ、まだどの程度の効果があったのか、金程村で確認してからでないと何とも言えません。たまたま金程村の出来が良かっただけかも知れないのですよ。稲の出来栄えを金程村で詳細に聞き取りをして、その内容をまとめた後で報告してもらえませんか。
この方法を追加することで、農作業の手間が増えるのです。間違った方法・内容が伝わるのは問題でしょう。せめて、籾米の運搬に目処がついてからにしませんか。
さあ、休憩はこれ位にして、先を急ぎましょう」
塩水選は絶対に効果があるはずなのだが、今これが伝わってしまうと、またややこしい話になりかねないので、先送りを提案した義兵衛だった。




