愛宕神社社務所 <C2483>
義兵衛達は余興の熱に浮かれた幾人かの参拝者が昇降する愛宕神社の男坂を、まるで競技者さながらに勢い良く駆け上がったが、同じような輩にまぎれ特段目立つようなことはなかった。
男坂の上の鳥居を潜ると、境内の右手の池の周りでは水盥などの片付け、左手奥側の神楽殿では奉納舞いの片付けがほぼ終わっている様で、いつもに比べればまだ若干多めの参拝者が本殿前の境内に残って居る状況となっていた。
本殿前とは異なり、社務所前ではすでに余興の熱気は失せ、撤収作業の大所も終わって、後は掃除しながらいつもの神社に戻ろうとしているようだ。
愛宕神社の社務所の中は宴の様相に違いない、と想像しながら本殿横の社務所に足を踏み入れたのだが、そこは静寂の空間だった。
そう多くもない愛宕神社の神主・巫女や事務方の面々は、浮かれた風でもなく能面のような表情でそれぞれの手仕事をしている。
「義兵衛です。街道筋の人捌きも片がつきました。伝令から撤収との指示を頂きましたので戻って参りました。周囲の連絡所にも伝えたことを確認しましたが、皆それぞれの持ち場を畳んでこちらに戻っておりますでしょうか。
あと、余興からの戻りを誘導していた増上寺裏手の人の流れは、終了直後に一時増えたものの、今はかなり減っており、向後特段の誘導は不要と考えられます」
最初は大きな声で戻った旨と報告を行ったのだが、場違いな音量であることに気付き、声を下げた。
余興である水運び競技を仕切っていた神主が義兵衛達を見て深く一礼すると、社務所玄関からいつもの応接ではなく別室へ案内した。
「この興業で、愛宕神社は今までに無い、おおよそ10万人もの参拝者を迎えました。正確に集計した訳ではありませんので、数千人の誤差はあるでしょうが、それでも今までの中では、そうですねぇ、一番多い日の倍ほどの人出がありましたでしょう。
また、寄進なども相次ぎ、今もその後始末に追われておるのですよ。嬉しいことなのですが、皆大それたことをしてしまったかの思いで浮かれた気分にはなっておりません。どちらかと言えば、呆然としておるのです。
それで、今は手だけ動かせば済む業務を無心に行っておるのです」
そう言いながら、奥の方から七輪を持ってきて練炭を入れると火を付け、それが落ち着くと見るや義兵衛達の前へ滑らしてきた。
「外で人流誘導の指揮をとって頂きありがとうございました。特段の事故の報告も無く、安堵致しました。これも皆関係された方々の協力があってのおかげでございます。
義兵衛様、内での仕事とは違い、今の刻限になると寒さも感じておりましょう。ささ、これに手を翳して暖を取るとよろしかろう。
ああ、これは七輪と申しまして、薪炭問屋の萬屋さんがこの秋口に新しく売り出したものでございますよ。芝・増上寺の時の鐘の件で時の鐘の管理寺である上野・寛永寺に使いに行かされたのですが、その折に和尚様から紹介頂き求めたものです。誰が考え出したのか、練炭とは便利なものでございます。まだ目新しいもので、ここでも2~3度しか使っておりませんけれど……」
「いや、ここに居る義兵衛様は、萬屋さんと懇意にされておる方でして、その練炭は実の所、義兵衛の里・金程村で作られたものなのですよ」
勝次郎様は思わず割り込んだ。
事情を知る者としてはここでどうしても言いたくなるというのは判るのだが、果たして安兵衛さんがあきれた表情で押さえた。
「勝次郎様、そこは言わぬほうが」
このやりとりを聞いた神主は何かを察した表情で深く一礼した。
「そうで御座いましたか。なにやら余計なことを申したようで、失礼しました。ただ、この七輪・練炭は冬場にとても役立つものと見て早速に手配に走りましたが、まとめ売りしかされておらず、ために結構値が張っており、なかなか思い切って量を買うことができずにおります。
しかし、今回の余興でお金の目算がつきましたので、これで大手を振って買いに行けましょう」
「いえ、萬屋へは愛宕神社様には卓上焜炉の刻印の件で恩義がございましょう。萬屋から寄進させれば良いのでございますよ。刻印の代金と引き換えにすれば、喜んで応じますよ。卓上焜炉も今もっとも売れておりましょう。愛宕神社の火伏印の焜炉もそれなりに売れておりましょう。
それと、練炭の価格についてですが、どの程度が適正なものかの見切りがついておらず、仮の値段をまとめ売りということで胡麻化している所があるのですよ。この先品薄になって値が上がるのか、それとも売れずに値が下がるのか、萬屋としても考えあぐねておるのです。その意味で、忌憚ない御意見を、本音の所を聞かせて頂ければ嬉しいと思っております」
義兵衛としては、勝次郎様の割り込みで聞けたハズの本音を聞き逃したことを残念に思いながら続きを促した。
「七輪・練炭購入についての助言、ありがとうございます。早速掛け合ってみましょう。
それで、練炭の価格ですが、正直に申すと練炭は便利と思われますが、今のままでは値が高すぎると思います。
卓上焜炉に使う小炭団が今は10文前後で流通されておりますでしょう。この料理比べの興業でも、皆卓上焜炉を使っておりましたよ。小炭団は今が盛りですな。夏場はもう少し安かったと記憶しておりますけどね。それで、同じ木炭の加工品であれば、重量で比べて200文位が妥当かと思っております。もっとも、200文でも結構なお値段なので、余裕がある所しか手を出さぬと思います。練炭は今の半値の150文ならば手頃な値段と思い、今なら飛ぶように売れましょう。ただ、これから寒さが増していくと、今の値でもどうしても欲しいとおっしゃる所も出てくるような気がしますがね。
そう言えば、小炭団も金程の印がついておりましたが、こちらも義兵衛様の里で作られたものでございましょうか」
小炭団は一時類似品が出回り、萬屋での販売は落ち目になると想定していたのだが、類似品では火力や燃焼時間がばらばらなことから主な需要先である料亭から敬遠され、その結果1個8文の金程印の小炭団はその価格を維持したまま夏場を乗り切っていた。
そして需要期となった今は、萬屋からはまとめ売りで50個400文、つまり単価8文で売っているものの、市中ではこれをばら売りにして1個10文相当で相対取引されていたのだ。
「いやぁ、お気付きになりましたか。小炭団は椿井家所領の金程村の工房で作っているものです。
そして、練炭も同じ工房で作っております。ただ私の村の工房だけでは江戸市中で必要とするだけの練炭を作ることができないと見たため、旗本・杉原様の所領である名内村と、佐倉藩でも同じ練炭を作らせております。そちらは、名内印と木野子印が付くことになりましょう。いや、佐倉藩は木野子村の印ではなく藩の印に統一するかもしれませんね。
値段についての感触をお聞かせ頂きありがとうございました。萬屋さんに伝えて善処してもらえるか、考えてもらいましょう」
長居してもあまり成果が無いばかりか、余計なことまで話してしまう可能性とその危うさに思い至った義兵衛は、話しを切り上げこの場を退散することとし、丁寧に礼を述べた後社務所を出た。




