円福寺の和尚 <C2482>
円福寺の寺務所は、料理比べ興業とその余興であるはずの水運び競技という両方の興業が立て込んでしまい、皆が右往左往していた。
そして、この混乱の中心にいたのが円福寺の和尚様であることを見抜くと、義兵衛はその和尚様を呼び出し向き合った。
「おや、これは先日八百膳の善四郎様と一緒に来られた方。ええと、確か椿井家の家臣・細江様ではございませんか。忙しい最中、この和尚に何か御用でございましょうか」
義兵衛は『細江様』という響きにいつもと違う奇妙な感覚を覚えた。
周囲の人は『義兵衛様』と呼ぶのに、和尚様の認識は『旗本椿井家家臣細江様の子息義兵衛』でしかないようなのだ。
これまでの経緯を知らないと、これが当然の対応なのだろう。
立場で言うと、同行している曲淵勝次郎様のほうがよほど上席になるのだ。
ただ、今の和尚様の言葉に安兵衛さんはムッとしているようだ。
そのような状況ではあるが、義兵衛は和尚様に直言した。
「このような時に上に立つ人が逐一指示する真似は辞めてください。和尚様が口を挟むたびに混乱が生じているのが判りませんか。先に八百膳の善四郎さんから話をしてもらっていますが、円福寺は興業の場所を提供し、またそれに伴うお坊様を動員して頂いているに過ぎません。誠に失礼な言いようになりますが、料理比べの興業は料亭の百川さんが責任を持ち指揮しております。また水運び競技の興業は愛宕神社さんが主導されております。その分の費用はそれぞれの所から支払うこととなっておりましょう。御確認下さい……」
「無礼な。突然のことゆえ、興業の元締めである善四郎様からの急な知らせかと思えば、妙なことを申すではないか。一体何の権限があってそのようなことを言われるのじゃ」
確かに、義兵衛の言いようを平たくすると『円福寺には今回の分の金を払っているので和尚は口を出すな』なので、何のかかわりもなければ至って失礼な物言いになる。
事情を知らない和尚様が口を挟むのも無理はない。
だが、勝次郎様は黙っていられなかったようで言い返した。
「私は、北町奉行曲淵甲斐守の息子・勝次郎と申します。父の命により細江義兵衛様に同行しております。『何の権限』とおっしゃられましたが、料理比べ興業と水運び興業の発案者は、この義兵衛様でございますぞ。表には出せませんが、関係する者であれば御承知でございましょう。愛宕神社の料理比べ興業で、それにふさわしい余興考案に窮していた時に知恵を出していた者ですよ。御存じではなかったとは驚きます。義兵衛殿に対し、このような扱いをされていることが知れたら、困るのは和尚の方ですぞ」
「勝次郎様、それは控えておく話です。広げてはなりませぬ」
安兵衛さんが押し留めねば、もっと困ったことになったに違いない。
「これは失礼致しました。勝次郎様、義兵衛様、安兵衛様、申し訳ありませぬ。あらためて続きをお話しくだされ」
勝次郎様は、御公儀を支える武家然としたしっかりした態度で和尚様に臨み、和尚様もまた北町奉行様の子息の発言としっかり認識したようで、態度をあらためて無礼を詫びた。
ただ、その先は義兵衛ではなく、当然のように勝次郎様の方を向いている。
だが、義兵衛は気にせずに、先に留めた続きを話し始めた。
「今回の興業が成功しさえすれば、そこから先は場所と人を出す円福寺さんの思いをきちんと伝え、収支の辻褄があえば定期的に行われる興業の利益を、それぞれの主催者と分かち合うこともできます。
料理比べの興業は普段面識を得ることも少ない武家・商家の重鎮が揃う貴重な機会となっているのです。それを不意にすることは、和尚様の意図するところではございませんでしょう。また、水運び興業については、料理比べ興業と違い単独でも行える興業なので、愛宕神社側では新しい行事として加えたい意向があると見ています。別当寺院としては、どうしても咬むことになりましょう。
場所貸しの立場として興業の主導権を握るのはそこからでも良い、と思ってはどうでしょう。今回はその下見として、不具合のある所や儲け所を充分観察する側に回るというのも手ですよ」
和尚様はしばらく黙ったまま考えこんでいたが、やがてはっとしたような顔を義兵衛に向けた。
「うむ。直言、誠に恐れいります。なにやら当寺の立場が貶められているような気がして、あせっておりました。
なるほど、今は首尾をしかと見届けるのがこの和尚の役、ということでしたか。
まだ年端もいかぬ者から諭されるとは、いやはや参りました。おっしゃられるように、ここは料亭と神社にお任せしましょう」
和尚様は、言葉の上ではともかく、義兵衛に対する態度は変えずにこう応えた。
義兵衛はとりあえず言質をとったとして和尚様との対応を終え、次いで余興の運営担当神主を探し始めた。
「勝次郎様。『義兵衛様のことは表に出さないように』と殿様からのお達しがありましたでしょう。滅多なことで、これらの興業の仕掛け人が義兵衛様であることを口にしてはなりませんぞ。そうでなくとも、困った人が義兵衛様の知恵を求めて集まってくるのです。またそれを妬む人もおりましょう。口にしてはならないことですが、御公儀として今義兵衛様を失う訳にはいかないのです」
義兵衛が先の出来事を予知し御老中に伝え、その結果が判明するまで猶予されているという事情まで、ここで話す訳にはいかない。
「確かにその通りなのだが、和尚はあまりにもの言いようではないか。事情を知る者としては、どうしてもつい一言、言わざるを得んと思って口を出してしまった。
次はないかも知れんが、留意する」
義兵衛の後ろで二人が話す内容が聞こえてくるが、余興開始まで間がない。
円福寺境内の天幕内にいる顔見知りの神主を見つけて、義兵衛は話しかけた。
「いろいろと和を乱していた和尚様には釘を刺してきましたので、現場での混乱は静まるかと思います。
それで、私の懸念なのですが、水運び興業で人が集まり始めたら、街道筋で興業にかかわりない人の往来を塞ぐことになります。適切な時を見計らって、迂回路へ誘導することが肝要です」
ここで義兵衛は『人の流れは水と同じ』という説明をした。
この説話に神主は感銘を受けたように何度も頷いた。
「これは貴重な考え方でございますな。一応、迂回路への対策は考えておりましたが『時期を見計らう』という所まで及んでおりませんでした。ただ判断が難しいので、出来れば義兵衛様に指揮をとって頂きたい」
江戸城外堀の更に外側にある芝の入り口となる新堀川(金杉川)にかかる将監橋と金杉橋が人流の要と見ていた義兵衛は、神主の要請を受け、更に御殿様の了解を得てから金杉橋に向った。
「義兵衛様、興業中や終わった後に、椿井の御殿様や壬次郎様に付いていなくてよかったのでしょうか」
安兵衛さんが今回の興業での椿井家の出方を気にしているが、義兵衛を隠そうとする御殿様の思惑は見えていた。
いや、安兵衛さん側からすると、椿井家の動向が気になってしかたない故の話かも知れない。
「興業の後にある壬次郎様のお目見えの時も『控えておくことは不要』と養父より指図されております。興業の撤収まで近くに居らぬほうが良い、と示唆されておりましょう。この賑わいの中です。私を良く知る方々は裏で動いていて控えている訳ではないことを察してくれておりましょうし、知らぬ方々は私のような新参の若造は一連の動きの中では数の内にも入らない、でよいではありませんか。いずれにせよ、私ごときが居なくてもどうにでもなりましょうし、安兵衛さんは私のことより、気になることがあるのでしょうか」
義兵衛は開き直っているばかりか、安兵衛さんをからかう心の余裕も出てきた。
そして、金杉橋の袂に作られた興業の連絡所に入り、興業が終わるまで増上寺の大門前の通りの状況を睨みつつ、迂回路への案内を指図し続けた。
余興の終わりを告げる愛宕神社の大太鼓が響いてからが義兵衛の頑張りの本番となり、新堀川上流の将監橋、更に遡って赤羽根橋・中之橋・一之橋まで伝令を走らせ、興業から流れ出る人流を捌くように誘導し続けたのだった。
誘導が終わったのは、余興終了から1刻(2時間)も過ぎた七つ時・申の刻(午後4時)を過ぎた頃であった。
この時刻では日が陰ると急に寒さが感じられるようになり、人出もいきなり減り始める。
義兵衛は、愛宕神社からの興業終了・撤収完了の伝令を受けると、赤羽橋を渡り増上寺の裏手を抜けて神社の社務所へ向った。




