椿井家控え室 <C2481>
余興の準備に抜かりないことを感じた義兵衛は、勝次郎様と安兵衛さんを連れ、一旦興業控え室に戻ることとした。
部屋に入ったところで、大事を前に緊張している壬次郎様と目があった。
「義兵衛、その方は気楽そうじゃのぉ」
「はっ、これも御殿様の庇護があっての賜物でございます。
何が起こるかわからないのが興業でございますので、見落としがないか・何か不具合があった時にはどうすればよいか、だけを考えております。なので、何事もなく想定通りに事が運んでいるときは気楽なように見えておるのかも知れません。
もっとも、紳一郎様からは『何かあった時に不用意に意見してしまうことが想定外』と厳しく注意されており、見えないようでも気を張っております」
笑いを誘って緊張を解そうとしたつもりだったが、甲三郎様が真面目な顔で昔話を持ち出してきた。
「こやつは、誰に話が伝わるかを一切考えず、思いついたその場で意見しおる。そのため、兄者が奉行から呼び出されたり、ワシも町奉行所の土蔵に監禁されたりと散々な目にあわされたものよ」
「博識で困るということは普通ないとは思うのだが、控えるということができぬようでは、悪目立ちするしかなかろうて。殿だけでなく御老中様や町奉行様のように異能に理解があるお方の目にとまったのは、幸運なのであろうな」
今回の興業の折に一橋様に御挨拶させてもらう予定となっている壬次郎様が、甲三郎様の言に今更という顔でぼやいた。
「これ、壬次郎。義兵衛は運に頼ってこのようになった訳ではないぞ。せまり来る大飢饉の対策を最短で成し遂げるために必要なことを筋道立てて推し進めたに過ぎん。しかも、手持ちの札が、里で作る木炭がせいぜい、という所からなのだ。狙ったということではないが、町奉行様や御老中様の知己を得ることができたのは、やましい心を一切持たずに大義に向かって進んでおったからに違いなかろう。『天は自ら助くる者を助く』という言葉があると義兵衛から聞いた。正しく真理と思うたものよ。
壬次郎の将来については、やっとここまで道を付けたのだから、後は大義に沿って努力致せ。
一橋様に大義の重要さを説くこともあろうゆえな。なに、本道を外さぬ限りはどうということもあるまい。今日はその大きな道筋の一里塚にしか過ぎんのじゃて」
御殿様は、一体何をどこまで壬次郎に吹き込んだのだろうか。
今の話からだと、天明の大飢饉については説明済なのだろう。
そして、餓死者の発生という被害を少しでも減らす目的を持っていることも。
あとは、依り代という公式のカバーストーリーで済ませていると思うのだが、実は240年後の一般人が憑いたとまでは伝えていないに違いない。
ここに居ては、殿様兄弟の恰好の暇潰し相手になってしまうと察した義兵衛は、早々に控室から抜け出すことを考えた。
「申し上げます。本日の興業は、料理比べの中身よりその余興である愛宕神社の興業のほうが噂となって広がっており、街道筋から1本奥まっている所とは言え、尋常にない人数がこの円福寺の周辺に集まり始めています。一橋様など御公儀の方々も居られますので、万一があっては困りますので、これから神社側の興業で不測の事態が起きないようそちらの方で待機したいと考えます」
御殿様と甲三郎様は頷いたが、壬次郎様は怪訝な顔をして問いかけをしてきた。
「義兵衛はいかほどの人数がこの寺を囲むと見ておるのかな。それに、なぜ不測の事態が起きることを、お主なら察知できそれを阻止できると言うのかな」
壬次郎様の追及に、義兵衛は一瞬絶句した。
義兵衛の中の竹森氏なら、渋谷の繁華街で群れる人や、初詣の混雑振り、コミックマーケットのようなイベントで人をどう捌いているのか、将棋倒しによる事故例などを見聞きしているから、並外れた雑踏で何が起きるかを想像できることもあるかも知れない。
このピンチに竹森氏は『落ち着け。水と同じで、要諦は一ヶ所に留めぬことだ』と話し掛けてきた。
久しぶりに聞く声に安堵の思いを強くし、義兵衛は一息入れると、徐にゆっくりと説明を始めた。
「人の流れは水と同じようなものと心得ております。水の事故というのは、その場に水が留まり圧がかかることや深く浸みて動かぬことから起きるものと推測しております。従い、人の流れを妨げぬよう、絶えず人を動かすようになっていることが肝要と思います。
この愛宕神社と円福寺の周辺には、興業目当てで最低でも2~3万、多ければ10万もの人が集まりましょう。そして、それらの人々が2刻程の間街道筋に留まることで、興業に関わらない者達の往来を妨げ、人の足を留めさせ、それが街道をさらに麻痺させることになりましょう。寺社の者とて気付いてはおりましょうが、影響が街道筋まで及ぶことにどこまで気付いているか。街道筋に影響が出そうな場合の対処まで考慮して人を流す仕組みを持っておるかを確かめてきたいと思います。
今の今までただ漫然と不安に思っておりましたが、口にすることで、壬次郎様の問いにお答えすることで、どこを確認しておかねばならないか明確に意識することができました。
改めて御礼申し上げます」
義兵衛は壬次郎様へ向かい深く礼を行うと、壬次郎様は小さく頷いた。
「もう良い。早く対処してまいれ」
この言を持って控え室から退出すると、部屋の中から3人が一斉に話し始める声が聞こえた。
この後控え室の中では今の一連のやりとりを肴にして盛り上がるに違いない。
出る間際、紳一郎より『興業撤収まで要人の近くにはおらぬ方がよかろう。殿もそうお考えである』と示唆された。
控え場所の円福寺を出ると、果たして同行していた安兵衛さんがぼそっと呟いた。
「この後一体あそこでどんな話が出るのか、実の所気になりますね。この場所にもう近づくな、というのも実に気になります」
「それは一体どういうことですか」
同じく同行していた曲淵勝次郎様が安兵衛さんに聞き直した。
「よいですか。庚太郎様は御三卿の田安様に、甲三郎様は御老中の御子息の田沼意知様に、そして今壬次郎様が御三卿の一橋様に仕えようとしておるのです。また、庚太郎様が御三家の水戸様に伝手ができておりましょう。田沼様はある意味御三家の紀州様の出です。
そうなってくると、椿井家は御公儀の要所を押さえているも同然と見えませんか。更に、加賀藩江戸屋敷で失脚したと思われる渡邉様が万一義兵衛様の助言で巻き返したら、いや『たら』ではなく、おそらく次の世代で権勢をふるうことになりましょうが、そうなると藩の財政に多少余裕ができて発言力を付けた前田様も御味方となりましょう。すでにその兆しがある、佐倉藩の堀田様も同じようなものです。堀田様は、老中にもなれるお家柄でございましょう。椿井家の3兄弟で示し合わせれば、いろいろなことが出来るのではないですか。
そこまで考えると、見方が一変しましょう。これが気になる訳です。
御殿様(北町奉行の曲淵様)からは当然のようにその中身の報告を求められますよ」
勝次郎様はその場に立ち止まり、愕然とした顔で安兵衛さんと義兵衛の顔を交互に見ている。
いやはや義兵衛も仰天の話である。
そう思っていると突然竹森氏が語りかけてきた。
『気にせずともよい。殿は壬次郎様の緊張をほぐれさせるのが狙いで、それは達せられた。
そもそもお主の役目は、儲けた金で飢饉に備えることであろう。今までのことで、御老中や町奉行に充分に伝わっておろう。殿はそれを執政にかかわる御三卿や御三家にも広げようとしておると見た。我らの存在を秘したまま取り組みの理解者を広げるのは、さぞ難しいことであろうが、それは関与するところではない。もはやなるようにしかならん』
久しぶりに竹森氏と長い会話となったが、それで踏ん切りがついた義兵衛は余興の興業を指揮する円福寺の社務所に入っていった。
随分長い間休んでしまいました。しれっと続きを投稿していきます。




