壬次郎様は苦手です <C2478>
『実弟である壬次郎様を一ツ橋様の家中に加えて頂くため事前にお目見えする』という興業後のイベントのため、事前情報をインプットする目的と聞かされていたが、表面的なことだけと思っていたところに、興業の本質を問われたことに義兵衛は大層あわてた。
椿井家の3兄弟の真ん中だが、当主である殿が『意見・本音を言わず誤解されやすい』と評していた覚えがある。
物事を考えるにあたって、基本的なことの確認から始めるのは良いこととは思うが、その対応はひどく面倒臭いのだ。
兄弟や家中から敬遠されるだけのことはある。
「はっ、料理比べの興業の大義名分は料亭・八百膳の主人・善四郎さんが握っておることで、直接問い質したことはございません。しかしながら、江戸に多種・多様な食を育成・成熟させる仕組みを作りたいと申しておりました。食の充実で民心を豊かにする、と言ったところかと存じます。また『江戸煩い』という病がございます。これは、食が白米に偏ることで生ずる病でございます。食を豊かにすることで、こういった病を退けることも可能と考えております」
まるっきりの出まかせではないことの証として、将軍家に脚気の症状が出る予言と、それを予防するための具体的な策が御老中にも聞こえており、現在もおそらく対策が進行しているに違いないことも説明した上で、さらに付け加えた。
「そして、料亭・仕出し膳の座に肩入れしているのは、夏場の炭団の需要確保の一環と考えております。ただ、色々と困った時に意見を求められて対応したことから、頼りにされてしまいました。現在もその延長と考えております。そういった事情で私が関与しておりますが、私個人としては、もとより長く興業に関与するつもりではありませんでした。
しかしながら、椿井家として見た場合、御三卿・御三家といった普通ではあり得ない方との知己を得るには格好の場ということもあり、手を引きかねていたという面はあります。更に、今回のように思い切って殿がこの場を活用することも出来ます。
また、萬屋の観点からすると、興業で与えられた席は商売をする上では良い取引材料であり、これを俄かに手放すのは惜しいというところかと存知ます。仕出し膳の座立ち上げの時点から協力して得た折角の立場ですので、何の代償もなく手放しても良い、とは考えないでしょう。現に、その席を萬屋の商売の役、薪炭問屋の株仲間の内での地位向上のために役立てております。
更に萬屋は、つい最近当家の出入り商人となったばかりでございますが、その隆盛が当家の財務改善と密接になっております。急に羽振りが良くなったのは、当家の借財を一掃できたことが大きいのはご存知のこととは思いますが、それには萬屋へ卸した焜炉・炭団の費用を回収してからというのは確かです。
萬屋と仕出し膳の座・料亭との繋がりが、殿にとって利用価値が高いのであれば、この立場を継続できるようにするのも大事な役目とも考えます」
義兵衛の目から見た状況なのだが、理解してもらえたのだろうか。
そもそも、何かを新規に始めるときに『大義名分』を打ち立て、規範・基調を作り、行動指針を定めてかかる、なんぞ本邦のどこを探しても上手くいった試しがあると聞いたことがない。
とりあえず思いつきから始めて、ある程度形になってから後付けでそれらしい理屈を付ける、というのが現場主義で鍛えた教育レベルが高い集団である本邦の特徴なのだ。
それからすると壬次郎さんは、どこか契約至上主義の西洋風な考え方の持ち主のような気がする。
そして、椿井家の面々はなぜ他の旗本と発想が異なるのか、その特色が一番出てしまっているのが壬次郎さんということで間違いないだろう。
「うむ、これから先については兄の考え次第ということか。今度の興業の余興について、ここに絡んだのは如何なものかと思っておったが、先方から頼りにされたのでは仕方あるまい。
それで仮定の話ではあるが、もし、義兵衛が椿井家とのしがらみが全く無いとするならばこの先どう動く」
どうやら義兵衛の本音を聞きたいらしい。
「私自身は、里の米蔵に飢饉対策の米は満たし、4年後から始まり5年の長きに渡る不作でも里の皆が飢えることがない状態とすることが目的の全てです。
そのために、里で木炭の加工を手掛け、これを売ることで銭を稼ぎ、その銭で米を買って蓄える、という基本方針から外れることはありません。萬屋がその鍵を握っておりますので、ここで里のために大金を得ることに尽力いたします。
ああ、私が今まで関係した者達が飢饉で困窮する姿も見たくはありません。おそらく、私に直接関わる者全てが大飢饉という天災で困窮することがないよう、精一杯努力いたします。もし、萬屋に入ることが近道ということであれば、そうするでしょう。
里を統べておられるのが椿井家であり、私の成したことに賛同頂いて家臣として召し抱え頂きました。椿井家に命懸けで尽すことが正しく今の状況であり、これが一番近い道となっておりますので、今はただ必死で殿様の御為に努力いたします」
壬次郎さんは義兵衛の言に大きく頷いた。
「義兵衛の基本的な考えはおおよそ理解できた。天晴れである。
だが、兄に仕えておることも目的の手段にしか過ぎないというところが、ちと残念ではあるかな。
さて、兄はワシを一ツ橋様付きとすべく動いておるが、これは義兵衛の入れ知恵か」
ここは、勝次郎さんと安兵衛さんが聞いているので用心して答えなければならない。
「いえ、私の考えは一切入っておりません。ただ私なりの推測はあります。
田沼意次様と松平定信様が、ああ今は田安様ですね、田安家の当主の扱いで不仲になっておりましたが、どういった弾みかこの仲介を椿井家が致しました。今、殿は田安様から贔屓にされており、甲三郎様は田沼意知様に仕官するという具合で御三卿・田安様と御老中・田沼様の関係は密接になっております。しかしこの結果、仲が良かったはずの一ツ橋様と田沼様の関係が上手くいかなくなる、と踏まれたのでしょう。そこで、椿井家の最後の切り札である壬次郎様を一ツ橋家に仕官させたい、と願ったものと考えております」
「それぞれの役回りもあろう。御公儀の中で、一ツ橋家はどのような立場になると考えておる」
「これは難しい問いで、私の知恵も及ぶところではございません。
田沼様の行う御政道と田安様の考える御政道には違いがあるものと思われます。そこを仲介できる力があるのが一ツ橋様ではないかと考えます。そうすると、両者の動きを掴み、御政道を必要な所で妥当なところに落とし込むというのが役目ではないかと思います」
実際は、将軍家の血筋を一ツ橋家一色に染めてしまうことの阻止という側面があるのだが、それは口に出せない。
一ツ橋家から出るはずだった将軍・家斉様は、別名『オットセイ将軍』とも呼ばれた子沢山で、これを大名に嫁がせたり養子に行かせるなど、幕府の財政を傾ける一因ともなったのだ。
その意味でも、一ツ橋治済・家斉父子は押さえ込む必要があるのだが、これは口に出来ない。
「今回のことはよく判った。流石に知恵袋として兄が大切に扱うのも判る。後は兄との協議じゃな。今後も、今まで同様に兄・庚太郎に仕えよ。まあ、それが手段であることは兄とて重々承知しておろうがな」
ともあれ、義兵衛の回答で納得したのか、壬次郎さんの追求は終わらせることが出来た。
壬次郎さんと紳一郎様が退出し、義兵衛達も長屋に引き上げた。
「やはり普通の旗本の当主ではありませんね。『言葉足らずで誤解されやすい』と庚太郎様が説明されておりましたが、納得いたしました」
「しかし、物事の本質を見極めてから行動しようとするところは感心致します。また、聞かねばならぬことを見極め、はっきり聞くというところは私も見習いたいです」
安兵衛さん、勝次郎さんもそれぞれ思う所があるようだ。
ちょっと腹黒い感じもするが、ひょっとしたら一ツ橋治済様と相性が良いかも知れない。
だが、義兵衛としては、ちょっと苦手とする相手に違いなかった。
説明のような細かな話が続き、どうも上手く話が流れていきません。細かい所にこだわってしまう悪い癖が出ているようです。くどいと思われる方もられると思いますが、ご容赦ください。




