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浮桟橋 <C2475>

■安永7年(1778年)9月15日(太陽暦11月3日) 憑依244日目 曇天


 義兵衛が仕組んだ興業の余興だが、勧進元の元締めとなっている八百膳・善四郎さんが予め寺社奉行に届け出をして了解を貰っていたため、昨日の試演について江戸市中でそれなりの賑わいを見せた、場合によっては騒動とも思える騒ぎだったが、特段の御咎めもなく終わらせることができた旨を安兵衛さんから聞いた。

 ただし、それは昨夜の話であり、予めこの余興の内容を町奉行として聞いていたからこそ町奉行レベルでは許されたようなもので、不意打ちであったなら、やはり御公儀の詮議は免れなかったものと思われる。

 もっとも、今日城中であの余興がどのような話しになるか、によって今後の風向きが変わる恐れもある。

 試演による近隣大名屋敷への挨拶・付け届けは神主様自らが出向いて行ったように聞いている。

 その影響が大きいところは、伊予松山藩(15万石)上屋敷の松平隠岐守様、越後長岡藩(7.4万石)中屋敷の牧野備前守様、大和小泉藩(1.1万石)上屋敷の片桐石見守様で、いずれも愛宕神社の参道がぶつかる一角の敷地に屋敷を構えている。

 どなたも重要な役職についてはおられぬので、北町奉行・曲淵甲斐守様から御老中・田沼主殿頭様へ今日中にでも報告が行われれば押さえが利くだろう。

 そういった偶然の要素に期待せねばならないこと自体、企画としての準備不足とも言える事態なのだが、あと5日しかないという状況ではやむを得ず、ということは理解できた。


「萬屋の主人から、伝言が入ってきておる。『昨夕、佐倉より千次郎が戻りました』とのことであった。連日伝言があるが、忙しいことじゃ。しかし、これはこれで良い加減なので、良い小遣いが出来て助かる」


 屋敷の門番が声を掛けてきた。

 伝言を受ける都度、門番は何がしかの金子を使いの者から受け取っているので、義兵衛が屋敷に居るとその分潤うことになる。

 それはさておき、今日も特に用向きがないことが御殿様から聞かされているため、義兵衛は萬屋へ向かうことにした。


「義兵衛様、お待ちしておりました」


 日本橋の具足町にある萬屋本店で、大番頭の忠吉さんが出迎えてくれた。


「昨日の愛宕神社の俄かな賑わいの噂はこちらにも響いておりますぞ。

『愛宕神社の急な石段を柄杓を担いだ男達が競争した』とか。昨日は試演ということですが、本番は料理比べ興業に合わせ、その余興として行うとか。萬屋が卓上焜炉の御印を愛宕神社様にお願いしてこのかた『運が向いてきた』と笑い話のようなことを、神主様が申しておりました。実は昨夕に神主様が来られ、帰ったばかりの主人と話し合いをされておりました。内容は聞いておりませんが、主人は上機嫌でしたよ」


 そんな状況を聞きながら、作戦会議室と化した茶の間に安兵衛さん、勝次郎さんと一緒に案内された。

 主人・千次郎さんが待っており、佐倉藩との練炭の扱い、いや寒川湊での扱いについて報告があった。


「12日夕方に寒川湊に行き、着いたその場で大きめの蔵を手配しました。あとは受け取りを担当する久蔵が寝泊りする場所ですが、しばらくは蔵に近い宿を借りるようにしています。いずれは、長屋を借りる心算です。

 翌13日に佐倉・木野子村に行き、吉見治右衛門様と交渉しました。現在、江戸市中手前の根岸で検品し1個130文の卸値で受け取っておりますが、これを寒川湊で1個115文で受け取ることの承諾を頂きました。治右衛門様は、表には現しませんでしたが、木野子村から運ばねばならない距離が14里(56km)から4里(16km)に短縮できることを大層喜ばれており、早速翌日からの馬の編成を変える手配をされました。生産量が増えると、それに応じて運ぶ馬を調達する必要があるのですが、距離がここまで短くなると、馬を増やすことなく運ぶ量を増やせます。浮く費用を見積もって、それを折半すれば良いと説得して115文でも充分儲かると力説して納得させました」


 普通の武家であれば、商人の利を説く姿勢だけでは納得しないのであろうが、なまじ勘定方に所属していた経験がある治右衛門さんだけに、目の前にある損得を熱心に説かれては頷かざるを得なかったに違いない。

 1000個の練炭を馬6疋の荷駄隊で運ぶのだが、多い時には1日8隊もの荷駄が続く、つまり48疋の馬が荷運びに使われる。

 しかも日帰りできないので、江戸行き・佐倉帰りで96疋、予備を含めて現時点で100疋の馬を手当てしている。

 木野子村だけでこの状態で、宮本村の木炭窯が上手く稼動すると、新しい工房を建て、今の倍以上の2万個もの量を運び出す手当てをせねばならない。

 この問題に頭を悩ませているところに、卸し先の萬屋から格好の提案がなされたのだ。

 武家の矜持から、飛びつきたい気持ちを抑えてしぶしぶ了解した風が目に浮かぶ。

 4里であれば、日帰りはもちろん場合によっては2往復できる可能性もある距離であり、今の馬の手当てのまま増強をせずに充分輸送力が確保できる。


「それから寒川湊に急いで戻り、久蔵と翌日から受け入れる形を作りました。ただ、船だけはどうにもなりませんでした。50石積み(125俵積み、7.5t、練炭なら2万個搭載)の五大力船を探しましたが、未だ手配できておりません。幸い借用する蔵が結構大きく、10万個程度は置くことができそうなので、半月の間にきちんと取り決めができれば良い、と腹をくくりました」


 それは良いのだが、災害が多い江戸のこと、湊の蔵に貯めた10万個もの練炭が突然の災害でフイになってしまうことを懸念した。


「借用する蔵は、洪水などの被害を受けやすい場所に立っておりませんか。古老の方に聞いてみるなど、しておいた方が良いですよ」


「根岸の時もそのようなことをおっしゃっておりましたな。実は都川沿い・厳島神社近辺の蔵は借りることが出来ませんでした。しかし、3町(約330m)ほど南に行った所に寒川神社がありまして、その裏手におおよそ1丈(3m)ほどの小高い土盛された所に丁度良い蔵がありまして、これを借りることが出来ました。寒川神社は古くからある神社だそうで、社殿もそれなりと見えましたので、洪水や津波のような災害にはなりにくいと判断し、裏手にある蔵の借用を交渉したのです。

 ただ、輸送という点では、普通の明神様の所にある港を使うには、それなりの重量のあるものを運ぶ労力が要ります。しかし、寒川神社から西側の海岸まではかなり近く、道の海側には数件の舟屋(船の収納庫の上に住居を備えた家)も見かけておりますので、こういった場所から直接船便を出すことができれば、と考えております」


「いえ、舟屋は海が穏やかであればこそのものでしょう。あの場所にあったのは磯用の小船・海苔漁師の小船を格納するものでしょうし、舟屋が五大力船を直接扱うというのは無理がありましょう。そもそも潮汐の干満差が大きいと、河岸代わりとして舟屋は使い物になりません。そこから延びた浮桟橋ということであれば、多少考えようはあります。しかし、これとて都川の河口からほど近い場所であれば、よほどの利用価値がないと維持するだけで出費が嵩みますよ」


 千次郎さんと義兵衛のやりとりだったが、突然安兵衛さんが割り込んだ。


「義兵衛様、私には良く判らないのですが、浮桟橋とは何ですか」


 勝次郎さんもハッとした表情で義兵衛の顔を見た。

 よくよく考えると、海岸沿いの河岸で雁木がんぎ、つまり階段状に作られた段は見ることがあった。

 満潮時は高い段から、干潮時は低い段から渡り板をつけて荷運びをしており、それが当たり前の時代であり、実史でも浮桟橋は無い、もしくは起源がはっきりしない。

 その上、この時代では『桟橋』という言葉さえ無いのかも知れないことに思い当たり、問い詰められて冷や汗が流れた。

 義兵衛は山間部の百姓であるが故に、海の事情には疎かったため、つい竹森氏の知識で語ってしまったことを安兵衛さんに咎められた格好となった。


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 浮き桟橋が江戸時代に普及してれば小舟で往復しなくても荷下ろしできるもんなぁ~
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