水運び競技案 <C2472>
史上に先行したマラソン競技と組み合わせるという提案は、どうやら否決されそうな具合になっている。
しかし、マラソン興業自体は否定された訳ではなさそうだ。
要は、料理比べ興業との相性が良くないのだ。
問題は競技の大部分が興業地から離れた所で決してしまう点に尽きる、と思い至った義兵衛は次の提案をした。
「では、円福寺の境内から愛宕神社へ桶に汲んだ料理の水を何度も運ぶ競技、というのはどうでしょう。神社の拝殿前に料亭の名前を書いた盥を置き、桶で円福寺の境内から水を汲み、盥へ運ぶのです。早く盥を一杯にした所を勝者と認定すれば良いのです。具体的な検討を進めると、多少違うものになってしまうかも知れませんが、どうでしょう」
小学校の運動会の競技のようになってしまったが、面白みはあるに違いない。
どこかのバラエティ番組が芸能人を選手にして似たようなことをバタバタとさせ、これを放送していたような覚えがある。
何度か繰り返すと、各料亭の応援団から選手を選び出すという方法に問題が出るかも知れないが、そういった課題が出ることを承知で今回実施してみるのも悪くないだろう。
座敷に居る面々の感触は悪くない。
「皆様、どうでしょう。円福寺さん、愛宕神社さん。こういった興業が並行してできるか至急持ち帰って検討してください。百川の茂左衛門さんも一緒に説得してみてください。小道具は盥と水桶ですから、いかようにでもなりましょうし、興業の間を待つ観客にとっても良い見ものとなるため、参加の希望者は多いでしょう。出場希望者が多ければ、桶を渡して繋ぐ格好にすれば収まりましょう。
茂左衛門さん、参加料亭を通して応援団への説明も怠り無くしてください。見込みがたてば、一度現地で試行してみましょう。
いずれにせよ初の試みです。やってみなければ判らないこともありましょう。不備を指摘して何もしないより、この案でともかく進めましょう。万一成功しなくても、料理比べ興業自体には影響が無いので、どうということもありません。さあ、皆して頑張りましょうぞ」
善四郎さんの言葉で方向が決まり、この臨時とも言える寄り合いは一応終わった。
皆が立ち上がり退席していこうとする中、瓦版版元がボソッとつぶやいた。
「しかし義兵衛様、最初におっしゃった『井の頭池まで往復して速さを競う』というのは、とても面白い興業と思えるのですがどうでしょう。私等が興業の企画まで直接手を伸ばすのは難しいのですが、どなたかこれを推進して頂く訳にはいかないのでしょうか」
確かに、誰かが本邦初となるマラソンレース・駅伝の興業を誰かが行ってくれれば、そして、それに乗っかれば瓦版版元としては美味しいに違いない。
国民性からして、受けることは間違いないだろう。
新酒番船という実例もある。
※新酒番船:樽廻船がその年の最初の酒を江戸に輸送する速さを競うレース。
大坂と西宮の樽廻船問屋 14軒が1隻ずつ仕立て、灘など上方の酒蔵が作った新酒の酒樽を積み、西宮から同時に出帆、品川への到着までの時間を競った。
約700kmの航路は、通常早くても5日ほどかかるところ、寛政2年(1790年)には58時間で到着したという記録がある。
新綿番船とならぶこの年中行事は、「粋」なイベントとして江戸では人気があった。
最も早く品川に到着した船が「惣一番」と呼ばれ、「惣一番」を取った銘柄の酒は、優先的に流通され、最も高値で取引された。
味より何より、「最も早い」という価値が重宝されたのは「ボジョレー・ヌーヴォー」の解禁日をやたら有難がる風潮と一脈通じるところもある。
興業の後ろ立てということでは、新聞社が主催するマラソンや駅伝は結構あったはずだから、瓦版屋ができないはずはないのだ。
「當世堂さん。ここは仕出し膳の座が料理の腕を競い合うことを趣旨とした興業なので、また別な場で話しをさせて貰えませんか。
今回は目玉となるものが見当たらないことから、直ぐにでも出来そうな案を出したまでです。何人もの選手が、例えば襷を繋いで走っていく競技を『駅伝』と言いますが、実際に、この駅伝を競技として成立させるには、結構な下準備がいるのです」
義兵衛が説明する言葉で、横に座っている安兵衛さんがピクンとするのが目の端に映った。
「ほう、これは楽しみです。その折には一席設けさせて頂きましょう。善四郎さん、この當世堂は義兵衛様の接待に費用は惜しみませんぞ」
當世堂さんは、料理比べ興業の事務方として重要な打ち合わせに顔を出し、他の版元には真似できない話しの深さと早さで、信じられないほど儲けているのだ。
この興業に合わせ、日本橋の本店以外に本所と芝の2ヶ所にも支店を出し、出だしからそこそこの売り上げがあるようだ。
仕出し膳の座にからんで、いや萬屋の焜炉売り上げ策にからんでからは、休む暇もない程忙しい目にあってはいるものの、出す瓦版はいつも大当たりを続けており、まさに宝の山に座っている。
この上、駅伝競技という分野の宝の山も手に入れてしまおう、という魂胆があからさまに見える。
「まあ、この忙しい状況に目処がついたら、その時に考えましょう」
しばらくは目処などつきそうにないので『お断り』のサインなのだが、伝わったかどうか。
それよりも横に座る安兵衛さんがピクピクと反応している。
「善四郎さん、ちょっとこの座敷を借ります。人払いもしてください」
安兵衛さんは善四郎さんにこう告げると、座敷周りから人気が無くなるのを自ら確認した。
そして義兵衛に向き直ると、義兵衛に迫った。
「義兵衛様、『駅伝』について知ることを全部教えてください。
勝次郎様、このような知らない単語が出た時には見逃さず、必ず確認してください。知ったかぶりや勝手な解釈は禁物です。全部聞き取りしないと、今夜も徹夜になりますよ」
義兵衛は、実業団駅伝・箱根駅伝・地区対抗駅伝・学校対抗駅伝・男女混合駅伝などの種類とその内容を説明した。
ついで、陸上競技であるマラソン、短距離走・中距離走・長距離走、ハードル走、高飛び・幅跳び、砲丸投げ・槍投げ・円盤投げ・ハンマー投げなどの競技についても一通りの説明までした。
「こういった人力で行う動作を、時間や距離・長さで測り、その速さや長さを競うことが行われます。大方の競技は、競技用の施設で行われますが、マラソンのように長距離を必要とするものは一般の道を使用する形になります。そのため沿道には大勢の観客が競技の様子を見ることができ、人気があります」
義兵衛と安兵衛さんのやりとりを、勝次郎さんは口をあんぐりと開けて聞いている。
「勝次郎様、説明の要所・要所は書き留めるなどしておかねば、後で報告が漏れることになりますよ」
勝次郎さんは、あわてて矢立を懐から取り出しサラサラと書き出し始めた。
そして、一通り聞き終え、一応満足したのか安兵衛さんから終わりの宣言が出、義兵衛は八百膳を後にした。
「今日はまだ早いですが、御屋敷の門前までとしましょう。私達は早く奉行所に戻って報告しないと、また睡眠不足となりましょう」
義兵衛も自分の環境はそれなりにブラックと思うこともあるが、それに付き合わされる安兵衛さんは義兵衛以上にブラックな職場に違いない。
義兵衛は、今日仕入れた料理比べ興業の状況・付随するイベントなどを御殿様に報告し、普通通りの睡眠時間を確保できたのだった。




