忙しい御殿様と、疲れている安兵衛さん達 <C2469>
■安永7年(1778年)9月13日(太陽暦11月1日) 憑依242日目 晴天
御殿様はこのところ毎日登城している。
それは新設の油奉行として、手足となる配下の与力・同心に七輪の管理や配備、練炭の手配・供給計画を練り、指示するためである。
江戸幕府の年中行事として、亥の子を祝する行事(玄猪の祝い)があった。
10月の最初の亥の日が該当しており、江戸在住の諸大名・諸役人は、この日の暮れ六ツ(酉刻、この時期だと午後5時半頃)に登城、戌の刻(午後7~9時)に退出する様に命じられている。
宵から夜間の公式行事であるため、登城口にあたる本丸の大手門・西の丸の桜田門外、そして下乗所には大きなかがり火を焚き迎える。
皆は熨斗目長裃姿で次々と登城していく。
そして、登城した者達には、将軍から白・赤・黄・胡麻・萌黄の5色の鳥の子餅が下賜される。
この行事が御殿様にとって重要なのは、この玄猪の祝いが行われる日から翌年2月末までを、暖を取るための器具を使用しても良い期間と定められているからなのだ。
もともと、玄猪の祝日に囲炉裏を開いて炉で鍋を焼き、火鉢に火を盛るという風習があったものを、幕府が重要な行事と認識して取り入れたものである。
この10月の最初の亥の日は暦によって毎年変わるのだが、安永7年は10月1日が己亥となっており、あと17日しか日がない。
そして、安永7年は7月に閏月があった関係で10月になるのが遅かった(つまり寒くなる時期が暦に比べ早い)のだが、たまたま最初の日が己亥であったため、寒さに弱い人々がかろうじて救われている格好になっている。
ただ、寒ければ寒いほど、暖を取るための新しい器具に人々が着目するという観点からすると、10月11日が最初の亥の日とならなかったのは、多少残念なことではある。
いずれにせよ、玄猪の日が七輪・練炭のお披露目の日となるので、その事前準備に御殿様は一所懸命となっている。
諸大名が詰める各部屋、大奥の要所という効果的な場所に七輪を据え、練炭を配して、長時間暖を取るのに適した新しい道具と認識されることが、新設の油奉行となった最初の関門なのだ。
このところ通常の登城時刻よりかなり早い明六ツ(午前6時半頃)に、御殿様はお城へ上がるため屋敷を出た。
そして、いつも明六ツ前(午前6時頃)に屋敷に来ていた安兵衛さんが、辰の刻頃(午前9時前)と遅い刻限に現れた。
安兵衛さんに付き添う勝次郎さんは、明らかに疲れ果てた表情になっていた。
「勝次郎様、朝から大層にお疲れのようですが、変わった体験でなかなか寝付かれなかったのでしょうか」
昨日、萬屋から屋敷に戻る義兵衛に安兵衛さんと勝次郎さんは同行し、夕方の御殿様への報告にも同席したのだ。
これは『義兵衛がどのような構想を御殿様と共有するのか』を知っておくために必須と考えたのだろう。
しかしながら、幕府の政治施策にかかわる話は一切出なかった。
義兵衛は佐倉の様子を報告したが、気になっていた田安中将(松平定信)様とどのようなことを語り合ったのか、執政の方々がどのような方針を打ち出そうとしているかを義兵衛に語ることはなかった。
ただ言われたのは『20日の料理比べ興業の仕儀はわかり次第知らせよ』とのことだけだった。
「いえ、安兵衛さんが『江戸では寝れぬ』と、こぼしていた理由を実感しました。
こちらの御屋敷を出て奉行所に戻った後、父への報告という名前の詮議が行われました。佐倉で行われていること、見聞きしたことを報告しましたが、それだけでなく、道中での会話内容まで聞きだすのです。
萬屋で円様の意見を伝えたところ『今勘定方に協力しておる甲三郎殿と勝手に勘違いせぬかと思ってそう言ったまでのこと。田沼意知様の懐刀として使われておるゆえ、今後商家・町民との接点になる立場であろう。ただ、義兵衛の縁者となる萬屋が問い詰められて困ることまでは、考えておらんかった。これは、後日埋め合わせをせねばならぬ』と申しておりました。そして、『武家は金銭に、商家は公に対する今の認識を変えねばならない』という件について、私の認識も変える必要があるのか問いましたところ、心得違いを指摘され、延々と説教されました。
曰く『商家に借財している旗本・御家人では、お上に誠の忠義を果たすことはできぬのではないか』の一言に尽きるのですが、様々な事例を持ち出し、意見を求め、心得違いを指摘して説くのです。
おかげ様で、義兵衛様が意図していることは理解できたような気がしましたが、それが終わったのがもうじき夜も白むという時刻で、ゆっくり休む暇もございませんでした。
変わった体験というのは確かですが、それ自体が寝ることを許さない状況でしたので、義兵衛様のご指摘は前半分が正解です」
「勝次郎様、江戸で義兵衛様の付き人をして、何かいつもと違うことが起きると、必ずやこうなります。これからも御覚悟願います。しかしながら、やはり御殿様も父親でございますな。御指導される具合が、手前に行うものと随分違うように見えました。
御殿様は、旗本に財務改善を指導する者の養成を考えておられるのではないかと思っております。その手始めとして、現状のままでは部屋住みにならざるを得ない勝次郎様に目を付けたのではないのかと考えました」
安次郎さんの言うことは多分正解だろう。
勝次郎さんが17歳になった時点で、今の安兵衛さん並に金銭の扱いに対する理解が進むようになれれば、旗本の管財人として若年寄り配下に新設されるであろう部署に推挙される可能性があるのだ。
丁度、田沼意知様も17歳の時に親が城奉公しているにもかかわらず、官位を頂き城詰の立場になられた、という前例があるため可能性はある。
安兵衛さんも、武士の枠にとらわれず、上司の息子相手でも臆せず自分の考えをズバズバと述べるようになってきている。
「安兵衛さんの言うことは、正しいと思いますよ。御奉行様からどのような指導があって、それに対して自分の心得・意見がどう変わっていくのかを記録に残しておくと、将来後進の指導にきっと役立ちます。是非、日記をつけるべきです」
「はっ、御指導、ありがとうございます。しかし、義兵衛様も17歳前でございましょう。言われることが、随分と年寄りめいておりますよ」
義兵衛は思わぬ突込みに噴出してしまった。
「それはそうと、今日は20日に予定されている愛宕神社別当円福寺での料理比べ興業について、いろいろと状況を調べたいと考えています。事務方のつなぎとなっている萬屋千次郎さんは、昨夕から寒川湊でしょうから、そうですね、まずは勧進元の大元締めとなる八百膳の善四郎さんの所へ行きましょう。不在であれば、おそらく今回興業の勧進元・百川か会場の円福寺でしょう。
それでもし行き違いになれば、瓦版版元の當世堂さんのところに行けば、概要程度は聞けるはずです」
「今日の昼飯は、八百膳の特製弁当ですか。それは嬉しいですね」
「安兵衛さん。それはちょっと心得違いをしていますよ。私が顔を出すと、八百膳さんはいつももてなしてくれますが、それをハナから当てにするのは間違いです。何度かそういった待遇を受けていますが、それは当たり前ではありません。同行する勝次郎さんのタメにもなりません。
うむぅ。そういった下心があるようなら、順を変えましょう。まず、當世堂さんで概要を把握してから、善四郎さんを追いかけることにしましょう。版元ですから、事務方の主要な人の動きは把握されていることでしょう。そこから移動する途中で、どこかの茶屋で昼休憩にしましょう」
安兵衛さんは思わず本音を口走ったに違いないが、金銭の認識を変えることと、武士としての矜持を置いてしまうことは決してトレードオフの関係ではない。
義兵衛の『下心』という言葉に、安兵衛さんは顔を赤くして俯いてしまった。




