萬屋本宅で無事帰宅の宴 <C2467>
別間は板の間となっており、各自案内されて順に並べられた座布団に着座していく。
上座が客座となっており、安兵衛さんと勝次郎さんがまず座る。
その左側の列が主人の座る所となり、ここでは主人・千次郎さんとその身内という位置づけで義兵衛が座らされた。
千次郎さん・義兵衛に向き合う形で、カカ座があり、お婆様と華さんが座った。
下座は空いていて、ここから女中が給仕のための出入りをする。
まずは食事を載せた膳が運び込まれた。
普通の昼食であれば個人毎の箱膳(上面はB4サイズよりちょっと幅広)なのだが、一人当たりそれが3膳もある。
それぞれの膳に汁物がつき、副菜は3膳併せ大小6個の皿・鉢になっている。
豪華な料理を目にして驚いているとお婆様が紹介した。
「この膳は、料亭百川から取り寄せました。さすがに新進気鋭の料亭で、名に恥じぬ見事な膳で安心しました。
以前より皆様が今日・明日あたり戻られること、戻り次第連絡を入れるので仕出し膳を用意しておいてもらいたいことを百川に話しておりました。本日の昼前になるとは思っておりませんでしたが、早速使いを出したところ百川では準備を済ませていたようで『大丈夫、問題ない』ということで、間に合いましてございます。代金はかかりましたが、その甲斐はありました。
料理比べの興業を任される料亭は流石です」
「うむ、多少の無理を平気でこなすとは大したものです。この調子だと、贔屓筋もますます増えるに違いないですな。
まさか、萬屋が料理比べ興業の事務方ということで、無理をさせたのではないでしょうね」
千次郎さんの問いにお婆様は答えた。
「いえ、それならば代金は受け取りますまい。そのあたりは女将が仕切っておりましたので、懸念には及びませぬ。
昼膳を頂きながらですが、佐倉での首尾は如何でしたか」
「佐倉藩では本格的に練炭生産を始めており、当初の見込みより多く仕入れることができそうです。大番頭の忠吉に数を伝えておるので、七輪販売をもう少し進めても良いようです。
それから、お婆様。佐倉藩の練炭受け取りだが、千住宿の根岸だけではなく、千葉の寒川湊で行う算段を行いたいが、どうでしょう」
千次郎さんは寒川湊で練炭を取り扱うことのメリット・デメリットを説明した。
図らずも、船上で安兵衛さん・勝次郎さんに考えさせたことの答えとなっている。
「寒川湊で運賃を引いた値で受け取るようになると、佐倉藩は江戸まで別便を立てて送り込むことまでをしますまい。それに、練炭を求める他の薪炭問屋が、佐倉に直接買い付けに向う動きを多少なりとも牽制できましょう。上手くすると、この年末・年明けまでは萬屋以外に取引先を見いだせない状況を維持できるようになると考えられます。
できれば、明日にでも寒川湊に戻り、このあたりの手はずを進めたいのです」
『寒川湊で卸してもらうことで、佐倉藩との練炭取引を独占できる』と聞かされていた安兵衛さんは『それでも半年ももつかどうか』という千次郎さんの説明に驚いているに違いない。
義兵衛が様子を見ると、果たして安兵衛さんは唖然としている。
しかし、勝次郎さんはまだピンと来ていないようだ。
「勝次郎様、千次郎さんの言っていることは判りますか。商家はこのように色々な算段をして少しでも稼ごうとするのです。
問屋の株仲間といっても、仲間を出し抜いていち早く手を打つことで、多少とも利益を得ることも出来ます。しかし、これが有効だとすると、他の問屋たちは必ずやそれを上回る手を打ってくるのです。もちろん、萬屋とて他の問屋に出し抜かれるのを良しとはせず、次の手を考えて動きます。来年の夏場が商売としてはひとつの山でしょうね。なんと言っても、薪炭の商いは秋前の準備がものを言う商品を扱うのですからね。
これから来る冬の時期になって江戸市中で練炭が不足するようになると、勢い練炭は高値で取り引きされるようになります。すると、薪炭問屋は練炭の入手に一斉に走ります。江戸へ向う練炭の流れですが、金程村の工房分は登戸の萬屋支店で、佐倉藩の練炭は寒川湊でとそこから江戸への道は萬屋が握っています。隙があるのは、名内村の工房で生産している分で、こちらは冨塚村の川上右仲さんが運搬を引き受けていますが、千住の根岸にある蔵に納める分を横取りするなど考えられます。
名内村、木野子村が生産地であることは、とりあえず伏せてはいますが、ここへ他の薪炭問屋が直接買い取りにくるようになるのは、そう遠くないだろう、と思っているのですよ。
千次郎さんの提案している寒川湊での取引でなく、築地にある佐倉藩の中屋敷で卸すという格好になった瞬間、佐倉藩は約束を破棄し、萬屋より高値で買おうという薪炭問屋に卸すようになるのは見えておりますからね。
そういったことを勘案すると、千次郎さんは『寒川湊での卸しをしてもその状況で独占できるのは良くて半年』と言っているのです」
安兵衛さんにも聞かせるように、義兵衛はゆっくりとした口調で解説した。
お婆様は義兵衛の解説を聞いて口を挟んだ。
「千次郎、そこまで見通しているなら躊躇うことはありませんよ。こちらの都合より優先する事柄ではないですか。
義兵衛様がおっしゃることに間違いはありません。昼を食べ終わったら、必要な銭を用意し船を用立てて寒川湊へ急行しなさい。
なに、わたくしが話をしたかったことは千次郎へ聞かすことではありません。お前様が不在の間に、町年寄りの樽屋様と一緒に再度北町奉行・曲淵様に呼び出された位のものですよ。
もっとも、おそらくそこで話された内容は、『これは椿井家の知恵者が申しておったことなのだがな』と言っていたことなので、ここで説明しても、義兵衛様に聞き違いや勘違いがあるかの答え合わせにしかならないのですがね。義兵衛様のことを秘するように、と脅していた北町奉行様が、町年寄りに『知恵者』を喧伝してどうするのか、とも思いましたけど、そこは黙っておりましたよ。ただ、奉行所を出るや否や、樽屋様からは『知恵者』のことを難詰されました。なので『椿井家と萬屋の間での窓口として、細江義兵衛様に頻繁に来て頂いておりますが、知恵者の話は聞いたことがございません。今度会った時に聞いておきますが、御存じかどうかまでは。わたくしどもに、御武家様の細かい事情なぞ、とても判るものではございません』と申しておきました。いえ、嘘は決して申しておりませんよ。義兵衛様から自分が知恵者だとは伺っておりませんから」
お婆様はカラカラと声を立てて笑った。
余程面白いのか、華さんも顔を真っ赤にしてコロコロと笑いながら声を上げた。
「おばあさま、少し前からその話ばかり繰り返しておりますよ。確かに、その通りで、そのお返事だとまさか御奉行様が義兵衛様のことをおっしゃったようには見えませんが、でも、料理比べの興行で事務方に尋ねられたら、直ぐに露呈してしまいますよ。
後でも良いので、御奉行様にはその件を伝えておかねば、と思います」
「いや、華よ。だから、安兵衛様などにも聞こえるように話したのですよ。安兵衛様が報告し忘れることなど、あるはずもございません」
安兵衛さんはこの言葉に茫然としているが、勝次郎さんはこれを聞いて変にしっかりとした応対をした。
「華さんの懸念、円さんの言、私がしかと父に伝えましょう」
普段指示されっぱなしの息子から見ると恰好の反撃材料に見えたのだろう。
それとも、義兵衛の婚約者としらずに華さんの前でいい恰好をしようと張り切ったのか、まあどちらでも良いことだ。
碌な作戦も立てずに父とは言え御奉行様に反抗すると、まずもって酷い返り討ちに会うのは見えているのだが、それは義兵衛が口を挟むことではない。
今までさんざんな目にあってきた安兵衛さんが、勝次郎さんを庇うのか、それとも一度痛い目にあって身をもって学習させるのか。
多分後者ではないかと思うが、義兵衛は明日の楽しみが出来たとばかりに内心喜んだ。




