宮本村の負担 <C2462>
■安永7年(1778年)9月9日(太陽暦10月28日) 憑依238日目 曇天・朝方一時雨
吉見治右衛門さん、金井新十郎さんと一緒に義兵衛等一行8人は木野子村から宮本村へ向かう。
宮本村は、木野子村から東方向に小川を挟んで約半里(2km)の場所にあり、かなり近い場所にある。
しかしながら、昭和の時代には両村とも同じ佐倉市となってしまっているが、明治時代に丘陵に点在する村々を合併するときに木野子村は根郷村に、宮本村は和田村となっており、この小川が両村の境界となったことからも知れる通り、両村の直接の往来は意外に細い。
往来で重要な場所は、木野子村の南に位置する神門村で、宮本村から神門村を経由して寒川湊に至る街道が通っている。
木野子村の練炭も神門村を通って江戸へ向っている。
生産された練炭を江戸へ運び出すにあたっては、街道筋にある村ということも重視したに違いない。
助太郎が岩富村を推薦したのも、神門村の南に隣接する村であり、この街道を使って寒川湊への運搬を考慮したからだろう。
そして、宮本村も岩富村も、ともに御公儀の牧場である柳沢牧野にかかわっており、木炭の原料となる原木を牧野から得ることができるのだ。
原料と輸送という観点で、佐倉藩が宮本村に目を付けただけのことはある、と事情を聞いて納得していた。
ちなみに、助太郎推薦の岩富村は木野子村と違う丘陵塊に属しており、明治時代に近辺の村と合併し弥富村と名称を変えている。
さて、宮本村へ向う一行の内、昨夕から夜半にかけて工房から借り出した帳面を詳細に点検していた千次郎さんと義兵衛、それに付き合った勝次郎さんは眠い目をしている。
一方、安兵衛さんは義兵衛さん対応を勝次郎さんに任せ、ここぞとばかりに休息を取っていたせいか、鋭気がみなぎっている。
宮本村への短い道程の途中にもかかわらず小声で勝次郎さんと会話している。
「勝次郎様、昨夜の帳簿で義兵衛さんは何か言っておりましたか」
「はい、義兵衛様より千次郎様のほうが腑に落ちないことがあるようで、しきりに帳面を繰っては数字を書き写して義兵衛様に見せておりました。ただ、内容については、私には少しも判りません。聞きなれない言葉、おそらくは萬屋内で使っているであろう符丁のような言葉を聞きましたが、サッパリ訳が判りません。『ゲンカリツ』とか義兵衛様は何度も言われておりましたが、この言葉を安兵衛様は御存じなのでしょうか。
帳面での不明点は、宮本村の視察が終わり工房に戻れば質問されるのではないでしょうか。その折にはっきりすると思われます」
これを耳にした義兵衛はニンマリとした。
最初は気が張って細かく見ているのだろうが、そうそう変な用語を使っている訳ではない。
『原価率』にしても、耳で聞くから訳が判らないのであって、字を見さえすれば理解は早いだろう。
「ああ、それは物を作る時に使った材料にかかる費用の割合を示したものなのですよ。売値と仕入れ値の比率と言っても良いかもしれませんね。例えば、ある物を100文で売った時に、その物の材料費・仕入れ値が40文であれば原価率は4割、という具合かな。儲けの基本になる数字なので、この割合を意識するのは当たり前でしょう」
安兵衛さんは何度も聞いている言葉なのか、きちんと説明したことはないが意味合いは理解しているようだ。
こういった会話をしながら、聞きながら、一行は宮本村の名主宅についた。
宮本村の名主・平作さんは、事前に木炭窯作りのことを知らされており、助太郎と佐助さん達が来るのを待っていたようだ。
「吉見様、お待ちしておりました。こちらの4名様がしばらく当家のお客様ということで良いですね。もちろん充分接待させて頂きますよ。木野子村・名主の彦次郎さんから、村が繁栄している秘訣が作っている木炭にあると聞いて、大層羨ましく思っておりました。年貢も全部を米でなくあらかた木炭で納めることができるそうで、年1度しか取れない米ではなく、天気が良ければ毎日でも作れる木炭。そういうことであれば材料と人手、それから窯さえあれば良い訳でして、それで年貢米の代わりができるのであれば、ワシ等百姓にとってこんな有難いことはございません。
木野子村に見に行きましたが、村に6基ある窯を2日ずらしながら木炭を作り、毎日50貫もの木炭を納めておるそうですな。2日で100貫、1石の米に相当する木炭を納める分、納める年貢米を勘弁して貰えるのであれば、これをワシ等の村でもせぬ道理はなかろうと皆言っておりました。彦次郎さんの申すことには『木炭は闇雲に焼けば良いものではない。それなりの窯で、きちんとした術を用いなければ、売り物として使えるものは出来ぬ。木野子村の6基の窯は、御武家様が工房を興した時に指南していた武蔵国の樵達にこさえて頂いたもので、使い方もそのとき仕込んでもらった』とのことでした。
今回、吉見様からお話しを頂き、この幸運に喜んでおります」
木野子村はお試しということで、椿井家、いや義兵衛の持ち出しで窯作りの作業してもらった。
佐倉藩での練炭生産が江戸での七輪・練炭販売の成否を握っているのだから、初期投資としては止むを得ないことではあったが、今回は佐倉藩からの要請である。
このため、かかる費用は椿井家が佐倉藩から先に貰っている。
佐倉藩は窯作りの費用をどこかで埋め合わせるのだろうが、まず間違いなく宮本村に負担させるに相違ない。
「木炭窯を作るにあたり、村の負担はどうなっておりますか」
義兵衛の関与するところではないが、佐倉藩から椿井家として45両を前受していることから考えると軽いものではなさそうと考え、つい気になって声を挟んだ。
「はい、村の中に4基の窯をつくって頂き、焼き方を指南頂く代わり、その木炭の最初の6000貫については無償で藩に納めるというお約束でございます。それ以降の分については1貫40文で卸す条件で、その窯で焼く分については例え他で高く引き取るというお話があっても販売せぬという条件です。ただ、作って頂いた4基の窯ではなく、自分達で別に作る分はその限りではないそうで、年貢米との相殺も考慮するとのことでした。
なので、窯作りには村からも人を出して秘訣を教わりたく思っております」
佐倉藩は、なかなか厳しく取り立てるようだ。
100貫焼きの窯4基だと、フル回転させて3日毎に100貫の生産であり、約半年間は無償奉仕となる。
それ以降も、1俵(4貫)180文で売れる木炭、逼迫する今なら200文でも売れる木炭を160文相当で卸す条件だ。
それでも、取れ高100石にしか過ぎない宮本村としては半年の辛抱と考えたに違いない。
また縛られるのも今回作る4基の窯に限定されることも、受け入れる側としても良い条件と映る。
さらに、窯作りが自分達でできるようになれば、木炭窯作りの職人としての道も開ける。
こういったことも勘案し、また木野子村が急に栄えたことを見て、村の将来を考えても相応の負担として受け入れたのだろう。
「平作さん、木炭作りはそれなりに人手と根気が必要です。根気は充分と見ましたが、人手は足りるのでしょうか」
義兵衛の指摘にいささか驚いた表情を見せた。
特段の特産物もない取れ高100石程度の村と言えば、里の金程村70石に毛が生えた程度に過ぎない。
そこへ、大人を総動員するような企画なのだ。
「いや、確かに人手は少ないですが、牧に出ている者も使う所存です。窯を6基持っている木野子村は120石でございましょう。100石の当村なら将来は5基持とうと思っても不思議ではありません」
どうやら名主・平作さんには目算があるようで、これには納得せざるを得なかった。
一通りの談話を済ませ一息つくと、平作さんは切り出した。
「それでは、窯を作って頂く場所を案内いたしましょう。それから原料となる薪の集積場所を見て頂きます」
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