曲淵勝次郎様 <C2460>
■安永7年(1778年)9月7日(太陽暦10月26日) 憑依236日 晴天
早朝、椿井家屋敷の門前に至る路地で萬屋千次郎さんが待っていると、安兵衛さんが見目良い若侍を伴って現れた。
「千次郎さん、ここで立待ちしていても無駄ですよ。出入り商人なのですから、さっさと門番に声をかけて長屋に参りましょう」
安兵衛さんは門番に一声かけると屋敷内の長屋へ向った。
義兵衛は、助太郎と佐助さん一行に木野子村で行われるであろう相談の中身について話し合っていた。
「安兵衛です。門前に萬屋千次郎さんが居りましたので一緒に連れてきました。あと、御奉行様からの指示で私以外にももう1名同行することとなりました。事情を椿井様に説明しておきたく、先ほど細江様に挨拶しておきましたので、出立前の忙しい時ですが声掛かりがありますよ」
この説明を聞くと同時に紳一郎様が義兵衛を呼びに来た。
屋敷の座敷で安兵衛さんと若侍、それに義兵衛が待っていると御殿様が入ってきた。
「忙しない時にご挨拶いたし申し訳ございません。曲淵甲斐守より『義兵衛殿の行動に同行するものを付けよ』との指示があり、紹介したくお時間を頂きました。
こちらに控えておりますのが曲淵甲斐守の次男、曲淵勝次郎様です」
「曲淵勝次郎です。齢はまだ15歳でございますが『安兵衛殿と同様に義兵衛殿に同行せよ』と父から言われております。ご迷惑にならぬよう務めますのでよろしくお願い申し上げます」
「うむ、甲斐守殿はそう出たのか。なるほどのぉ。これは面白い。
勝次郎殿はまだ若いのにしっかりしておる。今はややこしい時期だけに、こちらこそよろしくお願いしますぞ。椿井家では安兵衛殿同様の扱いとなりますので、ご承知くだされ。
義兵衛、これから佐倉じゃな。しっかり見てこい」
この言葉に両名と義兵衛は伏して挨拶は終了し、御殿様と紳一郎様は奥の部屋へ退席した。
義兵衛は『そう出たのか』という言葉が気にはなったが、今は考える余地もなく後ほど本人から事情を聞くこととした。
安兵衛さん、勝次郎さんと千次郎さんの3人を加え、助太郎と佐助さん一行と義兵衛、計9人の集団は江戸屋敷を出立した。
道はいつものように千住大橋、水戸街道新宿・追分から佐倉街道を辿る道となる。
勝次郎さんと千次郎さんは初めての道程だが、他の面々は慣れた様子となっている。
まだ朝の早い内に、江戸川を渡河地点となる小岩市川渡し(京成本線・江戸川駅近郊)の渡船場に着くと、佐倉・木野子村で作られた練炭を運ぶ6疋の馬列と入れ違いとなった。
馬を引く馬子も背負子に練炭を積み上げておる。
先方の先導にいるお武家様は、金杉村の蔵に足繁く通う人で千次郎さんとは顔見知りであるようで声掛けした。
助太郎もうっすらと覚えがあるようで、勘定方の一人らしい。
「これは、足立様。佐倉からの練炭を運搬頂き、毎度ありがとうございます」
「おや、萬屋のご主人ではないか。ただ今は早朝便で1000個の練炭を運んでおる。これからどちらへ参るのかな」
助太郎が代わり挨拶を続ける。
「お役目、ご苦労様でございます。我々は勘定奉行様からの呼び出しを受け、木野子村の工房へ向っておるのです。佐倉にはしばらく居る予定ですので、よろしくお願いしますよ」
足立様と声を掛けられた御武家様は鷹揚に頷いた。
「このあとにも7組の馬隊が続いておる。今日は計8000個を搬入する予定じゃ。晴の日は荷が濡れる心配がない故、多めに入れることとしておる。1個130文なので、不合格が出なければ、今日は260両の売り上げじゃ。萬屋殿、今から年末が楽しみにしておるぞ。年末には最低でも1万両は積みあがっておる目算じゃ。
しかし、悩ましいのが、帰りが空荷となることじゃな。酒や醤油などの樽物なんかを商家の要請に応じて城下へ運んだりはするが、とても埋まらぬ。何か良い物が無いかと考えているのだが、実に困っておる。良い知恵があれば教えてもらいたいと思っている。
まあ、これも寒川湊(現:千葉市中央区寒川町2丁目近辺)に建てておる蔵が出来、そこから船で運ぶようになるまでのことなのだがな」
江戸・佐倉の間の輸送にはまだまだ苦労するに違いないが、それでもいろいろと変化が起き始めている。
足立様の一行と別れてから、渡し船で江戸川を渡り、市川から佐倉街道を歩き始めた。
義兵衛は千次郎さんの方へ声をかけた。
「千次郎さん。今更ですが、今の時点で店を5日も留守にしても良いのでしょうか」
「今の状態が続くなら、もう手は尽したと思っています。七輪が売れる・売れないで毎日帳面を睨んでいてもしょうがないでしょう。店の主が落ち込んでいては、店の者も困るし、大番頭の忠吉が仕切れば良いだけのこと。それより、今は販売の足枷となっている練炭の生産状況を、この目でしかと見ることのほうが重要と思ったのですよ」
確かに、次の手を打つためには練炭が確実に増産されていることを確信することのほうが重要と考えても不思議ではない。
このやりとりを聞いていた曲淵勝次郎様が安兵衛さんの袖を引っ張って小声で尋ねているのが聞こえた。
「浜野様(安兵衛のこと)、義兵衛様の周りではこのような商売の話がいつもあるのでしょうか」
「うむ、その通りだ。いろいろと銭勘定で判断することも多いので、そこは慣れてもらいたい」
これをきっかけに、御殿様が『甲斐守殿はそう出たのか』という言葉を考えることにした。
御奉行様の次男としか聞いていないが、もう少し情報がないものか、思い切って聞いてみた。
「安兵衛さん、どういった役目を頂いて曲淵勝次郎様を同行させることになったのでしょうか」
「浜野様、私から説明させてください。
将来は曲淵家の部屋住みにしかならない次男坊の私に、父はもう少し世間のことを知るように言われました。父は『浜野が最近いろいろと知恵がついたのは、義兵衛様の護衛として常に同行しているからだ』と言われました。そして浜野様と同様に護衛として同行するよう命じられたのです。義兵衛様の身辺警護をしつつ、周りで起きることをしっかり見て、聞いて、考えたいと思っております。
それから私のことは浜野安兵衛様同様に勝次郎と呼んでください」
「付け加えますと、これで護衛が二人となりました。まずは若様に義兵衛様への接し方から教授していくので、遣り繰りは難しいかもしれませんが、先には私の負担が少し減ることを期待しているのですよ。
若様、家中の者がいない時は、浜野ではなく安兵衛とお呼びください」
本人と安兵衛さんの説明からいろいろと思う所が見えてきた。
安兵衛さんとの二人組みということが知られるようになると、若い方が義兵衛と気付いてくるかもしれない。
そこへ更に若い勝次郎さんが居ると、万一の場合は勝次郎さんを義兵衛と見誤る可能性も考慮したのだろう。
そして、そういった警護面だけではなく、御奉行様なりに家のこと、勝次郎さんの将来のことを考えたに違いない。
御殿様はおそらくその思惑を一瞬で見抜いたが、ここに居る両名とも御奉行様の狙いについてまで考えが至っていないように思えた。
とは言え、義兵衛も両名からの説明を聞くまでは思い当たらなかったことを恥じるしかない。
そもそも人を見る観点が違うのだから仕方無いとも思えるが、人を育てるという見方を10代・20代の人間が出来るものではない。
木野子村までの道程で、義兵衛はもっぱら勝次郎様のことを聞きだし、そして勝次郎様の立場を理解した。
御奉行様は、旗本の借財整理の管財人が不足することを見通し、そのための人を育成する始めとして部屋住みとなるはずの息子・勝次郎を充てるつもりなのだろう。
金銭に対する忌避感が薄くなり、一般庶民の経済感覚にも鋭くなってきた安兵衛さんを評価したに違いなく、義兵衛に密着することでそれを身につけさせようとしたに違いない。
ただ、安兵衛さんが急成長した背景に、御奉行様が意識せずに徹夜で質問攻めにするような厳しい環境に置いたことも大きな要因なのだろうが、果たして息子・勝次郎さんにそこまで強いることができるかが鍵となるだろう。
今回の佐倉行きに当たっては、幕閣に呼び出されぬように身を隠すという指図から、多少物見遊山気分であった義兵衛だったのだが、その実、知らぬところで、いろいろな大人の思惑がからんでいることを改めて認識したのだった。
夕刻、一行は木野子村に到着したが、以前借りていた名主・彦次郎さんの離れは、佐倉藩・武家衆の奉公人が使っており、急遽本宅の一部を間借りして逗留することとなった。
先の思惑があり、新しく曲淵勝次郎さんを登場させました。これが吉と出るか、泡沫人物となるかは決まっていないのですが、そこはまだ先のこととなります。一応、史実の曲淵影露様に擬しています。
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