北町奉行所での説明 <C2457>
■安永7年(1778年)9月6日(太陽暦10月25日) 憑依235日 晴天
今日は北町奉行所の曲淵様から呼び出されている日なのだが、一向に安兵衛さんが屋敷に来ない。
昨日、町年寄・樽屋三右衛門様と萬屋のお婆様が曲淵様の呼び出しを受け、江戸市中に飢饉対策用の米蔵を設ける活動について状況説明をしているはずなのだ。
そして、その結果の取りまとめの手伝いとして義兵衛だけ呼び出すという話だったのだが、呼び出しに来るはずの安兵衛さんが来ない。
いつもであれば、義兵衛が起きる頃には、まるで屋敷の別室に泊まっていたかのように音もなく現れ顔を出していたのだが、日が高くなっているのに何の音沙汰もない。
じりじりとしている所に、辰の刻(9時近く)になってやっと奉行所から使者が来た。
「今朝は、浜野殿(安兵衛)は動けないため、私が奉行所まで同行するように、との指示を受けこちらに参りました」
紳一郎様は念のため屋敷にいる家臣の中からそれなりに腕のたつ2人を呼び、義兵衛につけて奉行所へ送り出した。
「奉行所からの使者と申して、万一害意を持つ者からの手の者であった場合も考え、北町奉行所までは当家の者を護衛に付ける。私邸門内まで入ったことを見届けるまでが任じゃ。道を逸れるようなことがあれば、それを咎めることも仕事じゃ」
この時点で敵対勢力などあるはずもないのだが、用心は充分過ぎる位にしたほうが良いとうのも尤もだ。
一行4人は足早に北町奉行所へ向った。
「使者殿、このお役目はいつもは安兵衛殿がなされておったのですが、『今朝は安兵衛殿が動けない』とは何かあったのでしょうか」
「昨夜奉行所に戻ってから、殿(曲淵様)と夜明け(5時頃)まで熱心に話されておったのですが、それが終わって手水に立った時に廊下にうずくまってそのまま寝てしまいよった。今は廊下横の部屋まで転がし寝させて居るのだが、もうそろそろ気付く頃であろう」
義兵衛が知る限りは2完徹夜なのだが、どうやら9月に入ってから連夜この状況とのことだ。
特に昨日、田安中将様(定信様は田安家に復帰されてから、従三位左近衛権中将兼右衛門督に叙任)と直接相対する座敷に居るというプレッシャーはとても大きかったようで、仲間内でも気の毒がられていたことを教えてくれた。
気を抜けることが出来たのは、江戸からしばらく離れた時とのことで、近々また佐倉藩へ行くことを楽しみにしていたようだった。
話をする内に北町奉行所に着き、私邸側の門を潜ると、同行していた2人は明らかにホッとした様子で屋敷に戻っていった。
義兵衛がいつもの座敷に案内されると、そこには安兵衛さんが座っていた。
「今朝は失礼しました。2刻(4時間)ほど仮眠しましたので、もう大丈夫だと思います。
案の定、御殿様から『米会所』のことを細かく問い質されましたよ。最後に聞いておいて正解でした。
あと『徳政令』の懸念と困窮旗本の対策について、御殿様は『今日聞くからよい』と私への細かい質問はなかったです。覚悟しておいてください」
なんともややこしい所だけが残っているようだ。
考え込んでいると、曲淵様が座敷に入ってきた。
「この場は儀礼は不要。いくつか聞きたいこともあるし、時間がないので率直に話せ。
昨日、江戸市中の火除け地に防火機能を持たせた土蔵を作り、これを防火壁となし、かつ土蔵に飢饉対策用の籾米を蓄える策を町年寄りの樽屋から聞いた。また、郊外には順次御救い米を納めた蔵を建てる策も、費用の目途がつき次第かかることが出来ると言っておった。主体は今まで通り、町会所とし、お上から若干の資金を下賜することで捗らせるよう考えておる。これに何か指摘することはあるか」
「はっ、江戸市中はその方向で問題ないと考えますが、同様の施策を京・大坂にも行うことが重要です。江戸はお膝元として民が擾乱するようなことがあっては示しがつきませんが、京は天子様がおわします所、大坂は天下の台所です。この2個所は特別な場所として、飢饉時の対応を進めることを忘れてはならないと存じます」
義兵衛は、天明7年(1787年)頃に盛んとなった御所千度参りと、天保の大飢饉(天保6年:1835年からの3年間に最大化した飢饉で、江戸期の大飢饉として天明の大飢饉と並び言及される)を契機として起きた天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱を脳裏に浮かべていた。
御所千度参りは、大学の入試問題にはあまり登場しないのだが、京周辺の住民数万人が飢餓からの救済を天皇に祈願し御所の周囲を回った行為で、天皇・朝廷の権威強化と幕府権威の凋落が広く知られることになる事件の一つと認識して間違いない。
天保8年の大塩平八郎は大坂奉行所の元与力という立場で、天保の飢饉の最中であるにもかかわらず大坂奉行所が庶民の困窮・飢餓状況を顧みず江戸への米回送を優先することを憂いて、豪商が集まる大坂・船場を襲撃するという事件を起こすことになる。
大塩平八郎の乱は一時期よく入試にも登場するので記憶に残りやすい事件なのだが、当時の『義挙』とは言え、元いた時代の基準に照らすと、いや当時の基準でも銃器を使用した暴発・テロであることは間違いない。
これを、陽明学という枠で良しと教える学校教育はいかがなものか、と感じた覚えがよみがえる。
「うむ、確かに御家老様の目は江戸にしか向いておらぬようであったな。答申にしかと入れておこう。
さて、それで本筋の問いじゃ。昨日、借財に困窮する旗本・御家人の救済策について、田安中将様(元松平定信様)に入れ知恵するよう主計助殿(椿井庚太郎様)に意見しておると安兵衛より聞いたが、その内容を語れ」
義兵衛は、まず『徳政令』の概要とそのデメリットについて説明をし、続けて実史上出された『棄捐令』についての概要を説明した。
「この証文の棄捐は『10年を超える期間の借財は、その利息で充分に元を取っておる故、その債務を帳消しにしても良い』と一見理屈が通って無理ない論理に聞こえますが、あくまでも借りて返却せねばならない側の屁理屈でございます。借りている方は一時は息がつけますが、貸していた側の商人は大きく痛手を負います。さらに、その翌年になると10年目を迎える証文が無効となることを恐れ、より厳しく取り立てをすることとなりましょう。もちろん、新規に貸し出すことを厭いますし、古い証文を借り換えと称し、返却できない今年の証文として書き直しを迫るなど、対策を練るでしょう。
結局、証文の信用・価値を棄損することが一番の問題なのです。
そもそも、武家が困窮し商人が栄えるのは、武家が金銭に疎いことと借金の利息が高いことが一因と思います。
そこで、禄を与えるお上が極めて低い利率で金子の貸出を行い、商家の高金利の借金をこれで一掃すれば良いのでは、と愚考したまでです。例えば、お上・勘定方が2分(年利2%)という利率で貸し出しを行い、禄から計画的に返済分を控除して支給する方針を打ち出したとします。札差は1割5分(年利15%)の利息を取っておりますので、先の見える旗本は勘定方より借りて札差の借財を清算しましょう。利息が高いという理由で金子を借りなくなると、札差や両替商は今の利息では客商売ができなくなりますので、かならずや利息を下げましょう。この下がった分が武家の手元に残ることになり、困窮の度合いを減らすことができます。
証文を無効にするのではなく、借り換えにより証文の利息を抑えることで、証文の信用を棄損させずに済みます。
多少違う所があるやも知れませんが、概ねこのような意見を進言するように話をしております」
義兵衛の御殿様は金銭を扱うことに嫌悪感がなく、商家の利息という感覚を理解する素地があるため、詳しい説明を省いているが、曲淵様はそうでないと見て、具体的な数値を入れた例で説明をした。
義兵衛の説明を聞いた曲淵様は、宙の一点をじっと睨んで考えこんでいる。
棄捐令の中身は実際に出されたものと異なっておりますが、これは義兵衛の中に居る竹森氏の記憶違いによるものと御理解ください。実際、高校レベルで内容を正確に理解・記憶している方が異常だと思ってください。(感想欄・一言のコメントを受けて、どうしようか考えたのですが、この形にしています)
まだ公布されていない施策内容を先取りして織り込むのは、ことのほか難しいのです。




