木野子村工房の変革 <C2441>
■安永7年(1778年)8月13日(太陽暦10月3日) 憑依213日目 晴天
朝の始業準備について、助太郎と弥生さんは宿直をした金井新十郎さんとその奉公人2人の計3人に教えながら、いつものように吉見治右衛門様を待っていた。
いつもであれば、朝四つ(10時頃)の少し前には来ているのだが、朝四つを半刻ほど過ぎた頃(11時頃)に治右衛門様の奉公人3人が荷物をかかえてやって来た。
「連絡が遅くなり申し訳御座いません。本日、皆は金井様の御屋敷に集まり、こちらの工房で作業をされる方の選別と通知を行っております。そのため、工房での作業は休業とさせて頂きたいと申しておりました。
夕刻になってから宿直のため主人・吉見が参る予定ですが、詳細についてはその後報告されるとのことです。
昨夜宿直をされた新十郎様は、主人・吉見と引継ぎをすべくお待ちください」
勘定奉行の金井右膳忠明様はこの木炭加工の殖産興業を本気で建て直すようだ。
ただ、治右衛門様の奉公人達は内容を一切知らされておらず、持参してきた荷で宿直するための準備を整えるばかりであった。
新十郎様は安兵衛さんと気が合うのか、かなり長い間話し込んでいた。
義兵衛と助太郎は互いに顔を見合わせ、武家衆と奉公人の名簿を睨みながら、誰が残るのかなどを予想して過ごした。
「おそくなりました」
夕刻にはまだ全然早い昼八つ(午後2時)過ぎに治右衛門様が工房にやってきた。
「工房での人事について私では対応できないということで、急遽勘定奉行様からの申し渡しを行うこととなりました。
結果は、今まで通っていた10名は半分の5名が別役を担当することとなり、5名が残ります。新十郎殿は残留ですぞ。
新規に名乗りでた12名ですが、内3名が意欲ありとして工房へ参加することになります」
結局、武家衆は8名、奉公人は30人となった。
奉公人について、別役となった武家に雇い先替えを強要した者が6名、新規の武家3人の奉公人が9人と、人の入れ替わりの影響は最小で済んだようだった。
工房から外れた武家衆5名は、佐倉藩内の木炭供給状況・供給可能上限数量の見極め実地調査を割り振った、とのことで『藩の新規殖産興業から全く外された』と後ろ指をさされないように配慮されているようだ。
「御奉行様は『奉公人30名は城下からの通いではなく、工房近辺に宿舎を設けることを検討せよ』と指図されました。
この村の名主・彦次郎に頼むしかないのだが、妙案がなく困っている」
助太郎が治右衛門様に提案した。
「工房の前室を拡張して寝泊りできる場所を作って確保するのが一番よいとは思いますが、この時期に稲刈り作業の邪魔になる作業は難しいでしょうね。
私達3人は彦次郎さんから家を借りていますが、いささか広い場所なので代わりとなる場所を準備頂ければ、しばらくは交換しても良いですよ。そうすれば、30人の場所ではなく3人の場所を探せば良いので楽にはなりましょう。
御奉行様の意図は、城下から1刻かけて通うことでの損失を少なくすることでしょうから、当面は全員が対象ではなく逼迫する作業行程の者だけに絞れば良いと思いますよ」
この助太郎の最後の案が採用され、工房の奉公人控え室に泊まれる15人を目処に6日間交代で順次入れ替わる方式を考案した。
話し合いが終わると、金井新十郎さんは宿直の説明をして城下へ戻っていった。
おそらく、ここでの結果は御奉行様に報告されるに違いない。
■安永7年(1778年)8月14日(太陽暦10月4日) 憑依214日目 晴天
いつもの明け四つ(10時頃)ではなく、それより1刻も早い五つ(8時)前に武家衆8人と奉公人27人が工房にやってきた。
しかも、奉公人は夜具や日用品などの荷物を目一杯担いでいた。
奉公人は控え部屋に荷物を降ろし手早く片付けると、新参者と経験者に別れて工房に整列している。
昨日に来ていた3人はまごまごしながらあわてて経験者の列に加わった。
いつもと違う気合が入った奉公人の雰囲気に助太郎と弥生さんは驚いた。
武家衆の8人も5人と3人別れ吉見治右衛門様の前に整列した。
「後から加わった我等3人は、工房管理のための秘訣を聞いておりませんので、今日一日お教え頂きたくお願いします。明日からは工房で生産の秘訣を習得したいと考えております」
この気合が入った挨拶に義兵衛は驚いた。
その後は、武家控え室で3人と吉見様、それに安兵衛さんを加えた6人で卓を囲んで説明を行った。
「工房の製品管理で重要なことは、決められた基準を満たした、つまり合格した製品だけ出荷することです。基準を満たさない製品を工房から外へ出さないことが非常に重要です。
そして、次に重要なのは、製造した製品の合格率を上げることです。このためには、不合格となった製品がどういった経緯で基準を満たさなかったのかを追求し、その原因を潰して改善することが必要です。その原因追求を行うためには、皆様が実際に練炭を作ってみる体験が必要になります。
それが出来るようになれば、後は、製品を作るためにかかる費用や手間をどれだけ少なくするか、です」
後はこの3点についての細かな解説となる。
製品管理の要点が伝わりさえすれば、そこから先は、工房を回す資金の流れ、つまり算盤の出番となり比較的簡単になる。
基本は木炭を大量に仕入れ、ちゃんとした付加価値を付け、その差額を利益として必要な所に配分することの説明で済む。
もちろん、かなり大きい余剰利益は藩への上納金となり、藩の借金を減らし武家の暮らし向きも向上に繋がることを忘れずに織り込む。
聞く面々の意欲が違うと、染みこんでいく度合いも変わってくるのか、以前のようにまどろっこしい説明を繰り返す必要はなかった。
一通りの説明を一日で終わらせると、丁度暮れ七つ(16時頃)になっていた。
以前であればここで皆引き上げとなるのだが、新参の御武家衆3人は改めて本日の宿直となった金井新十郎様と一緒にこの工房に残ることを表明してきた。
「我々は、まだ一度も木炭に触れておらぬ故、奉公人の作業が終わった後だが、実際に作業がしたい。日が暮れるまで、あと一刻(二時間)はあろう。工房で実作業を教えてもらい、皆に追いつくことが先であろう」
この言いように助太郎も驚いた。
結局は、この3名とそれに付いてきた新参の奉公人9人の併せて12人は、助太郎の指導を受けながら一緒に薄暗くなるまで工房での実作業を体験したのだった。
「やはり藩の重鎮である勘定奉行様が積極的にかかわってくると、意識も随分違ってきますね。この分であれば、最初の目標である日産500個は早く達成できそうです。
新十郎様が言うには『技術習得を今月中に終わらせよ』と右膳忠明様が厳命されたそうです。それで、新参武家衆も時間がないと焦っているのではないのか、と思われます」
宿舎に戻ってから、助太郎、弥生さんと工房の変わり具合を口々に言い合った。
「それが佐倉藩としての意向であれば、沿うのが我々の使命だろう。9月1日は、七輪・練炭の売り出し日で私の都合は付かないが、藩の意向が変わらなければ、その日のうちに名内村に転進して欲しい。そして、名内村での生産状況を確認し、先日のような問題が起きていなければ、近蔵をつれて名内村から金程村に戻っても良いのではないかな。そうさな。まずは、江戸の屋敷に戻ってきてくれ。
まあ、先のことはともかく、あと2日間、16日までにこの意欲が本物か見極めしておきたい」




