安兵衛さんの愚痴と木野子村での講習再開 <C2437>
■安永7年(1778年)8月10日(太陽暦9月30日) 憑依210日目 晴天
夕方までに木野子村へ着くために、多少早い時刻に屋敷を出た義兵衛と安兵衛さんだった。
千住大橋を渡り、水戸街道新宿・追分で佐倉街道に入る。
つい先日、細山村樵家の佐助さん達と辿った道を逆に進むのだが、見覚えのある宿や店の前を通ると、逆算してどれくらいかが判るので、思った以上に距離を感じない。
「義兵衛さん、こんなことを言うと不謹慎なのかも知れませんが、江戸を離れると実はほっとするのですよ。
萬屋で義兵衛さんがやらかした日の夜、御殿様(曲淵様)に私では説明できない、ということを説明するのにどれだけ苦労したか。
結局のところ、御殿様も自分では理解できない、ということを理解して、市井の価格動向に勘が働く者に助けを求めるしかない、と判断を下された頃には、もう夜明けで、私は椿井家の屋敷へ向わねばならぬ時刻でした。
義兵衛さんに奉行所への招聘を告げた時の顔を見た瞬間、とても失礼なことかも知れませんが、これで苦労する仲間が居ると思うと笑いがこみ上げてきて……」
あの時の安兵衛さんが、徹夜明けのハイ状態だったことが良く判る。
義兵衛が屋敷で外出禁止とわかり、長屋の部屋に居るしかないと判った時に、体を休めていたのはそのためだったのかと、今更ながら合点がいった。
「早めに奉行所へ戻れたのですが、翌日の説明の段取りをしろと御殿様から命じられ、そこから義兵衛さんが萬屋の床で広げた資料の再現ですよ。
御殿様は『萬屋で最初に広げた表より、後の需要・供給・均衡の方が本質であろうゆえ、そちらを準備せよ』と言うのです。最初の表のほうで意識が飛んでしまい、需給曲線のほうは眩暈を覚えながら写していたので、説明を思い出しながら整理して、なんとか格好がついたら、また夜明けです。
なので、土蔵に残され幕の内弁当を食べている時に、『空売り』『先物取引』のことを聞きそうになった自分が信じられませんでした。もし、義兵衛さんが説明する前に一言注意してくれなければ、また御殿様への報告が必要になって、寝ることも出来ない日が続いたのでしょう。
聞いてさえいなければ、報告する必要はありませんからね」
安兵衛さんは笑い話のように言うが、被害者本人なのだ。
「それで、報告をまとめてできる木野子村の滞在は大歓迎です。義兵衛さんが寝ている間は、私も寝ることができますから」
なまじ上司が優秀だとコキ使われる部下が大変なのは、今の世と変わりないようだ。
安兵衛さんが語る愚痴は面白く、軽く相槌を打つだけでいくらでも話は続く。
江戸市中ではかなり鬱憤が溜まっていたようで、ここで一気に吐き出させるつもりでもあったが、知りえなかった裏の事情も垣間見える。
歩き続けて、夕方には木野子村で助太郎達が泊まっている家に辿り着くことができた。
「それで、助太郎、不在だった9日間はどうだった」
「義兵衛さんが江戸に出立してから、最初の2日間は武家衆の人も奉公人の作業を手伝う感じはあったのですが、吉見治右衛門様と金井新十郎様以外の9名の方は、工房にはいらっしゃりますが、前部屋の控え室から出てこなくなりました。
そして、8月5日には、とうとう金井様だけ工房にお見えになり『吉見治右衛門様が江戸に召された』と言うのです。
それから、昨日までは金井様が毎日工房に来て、奉公人と一緒に練炭作りの作業をしておりました。正直言うと、状況をご理解されているのは金井様だけですね。
ところが、今日は吉見様と武家衆10人が全員揃い、変な気に満ちていました。なんでも、御殿様からこの練炭作りについて大層なお言葉があったとかで、朝に奉公人を集めて吉見様が訓示し、その後皆奉公人の間に入って熱心に話をしているのです。いや、作業の邪魔をしているのです。
折角、昨日は80個の合格品を作れるようになったのですが、今日はその邪魔のせいで、やっと20個ですよ」
この9日間の合格品の累計は約300個、1000個以上も作ったが、7~8割は不合格品として潰した、とのことだった。
ただ、奉公人の腕は少しだが上がってきてはいるらしい。
「金井新十郎様というのは、どのような家の人か聞いているのか」
「佐倉藩の勘定奉行の金井右膳忠明様・700石の六男だそうです。部屋住みで、親が養子先を探しておられたそうですが、それが嫌で、この木炭加工の話に飛びついたそうです。なんでも『出羽・山形には行きたくない』という話だそうです。武家衆の中では一番若く私と同じ歳廻りでした。その為か他の武家衆と違い、話がしやすいです。もっとも打ち解けることが出来たのは、金井様がお一人で工房へ来られた時だけですがね。
それで、勘定方の吉見様は父親の配下であるため、何か聞かされているのか、この練炭作りが藩財務に与える影響ということを理解されている貴重な人物でしょう。ただ、今日見た限りですが、一番若いということで、皆が居るときには波立たぬように控えめに行動している様子です。実際に義兵衛さんも、武家衆と奉公人との接し方を良くみれば、直ぐに誰かが判りますよ」
どうやら1人だけだが見込みがある者が居るようだ。
後は、この一人をどう守り育てるか、なのだろう。
義兵衛は、江戸で藩主・堀田正順様にお目にかかり、木炭加工について御殿様が感状を出すようお願いをした件を説明した。
「それで合点がいきました。昨日御城で何か動きがあったのですね。ああ、朝の訓示の背景がやっと判りました。
明日から17日までで、武家衆の再教育ですね。奉公人の作業の邪魔さえしなければ、義兵衛さんにお任せします」
後は細かな打ち合わせをして、この日は終わった。
■安永7年(1778年)8月11日(太陽暦10月1日) 憑依211日目 薄曇り
すっきりとまでは行かないが、空の高い所に絹雲が筋を描いて広がり、いかにも秋という空が広がっている。
助太郎と弥生さんと一緒に久々の工房入りをし、御武家衆・奉公人達が来るのを待った。
やがて、吉見治右衛門様を先頭に意気揚々とした一行41人が到着する。
昨日から始めたであろう吉見様による朝の訓示が終わると、義兵衛は吉見様を工房から誘い出し、事情を確認した。
時系列に、8月6日に江戸屋敷で御殿様・堀田正順様から直々に感状を渡されたこと、8月8日に佐倉城内で御家老・若林杢左衛門様から主要な家臣を集めた場で褒章として大判を賜ったこと、翌9日に関係する10人とその当主を招いて祝賀会を開き意気を盛んにしたことが判明した。
「今回、私が再びここへ来たのは、以前行った説明に不備があることを知らされたためです。明日から16日までの5日間を使い、その不備であった点を各人にお詫びしながら説明をさせて頂きたいと考えております。
ただ、10人それぞれに理解されている内容に違いがありましょうから、まとめてではなく、1日に2~3人を対象として順次ご説明させて頂ければと考えております。
対象となる方は、この控え室に詰めて頂きますが、それ以外の方は工房にいて奉公人の指導・監督に当たってくださっても良いですし、また独自に自宅で新工房の場所の検討や練炭のことを研究されても良いと思っております」
この方針は吉見様に了解され、早速に10人の武家衆を集め、4班に分けた組み作りと15日までの実施方針を含めた事前講習を行ったのだった。
なお、16日は再度御武家衆10人を集めての質疑と講習の予備日として設定した。




