義兵衛隠蔽の工作 <C2433>
北町奉行所の敷地にある土蔵の2階に、再び6人が揃った。
真っ先に勘定組頭の関川様が北町奉行の曲淵様に頭を下げた。
「教えて頂いた論理が誠に整然としていたことに驚き、思わず日頃の疑問が口に出てしまったこと、申し訳ございませんでした。
この場は説明を聞くだけ、ということで承知してはおりましたが、まだ若い義兵衛殿の口から語られたことで、つい我を忘れてしまいました。時折、椿井甲三郎殿より『里にはまだ若いが相当の知恵者が居る』という話を聞かされておりましたが、こちらがその知恵者・義兵衛殿とは、恐れ入りました」
「そのことじゃが、ワシは市井の銭金の流れや値段の動向に詳しくはない。それゆえ、詳しいであろう関川殿に声を掛けた。
義兵衛の説明の中身、関川殿が聞いて得心はしたのか。矛盾するところや歪に思えるところはあるのか。まず、それを聞きたい」
曲淵様は、関川様をこの場に呼んだ理由である『市場価格が需給の均衡により決定される論理の確からしさ』について返答を求めた。
おそらく安兵衛さんも萬屋で受けた衝撃から立ち直る間もないまま、この論理を報告したに違いなかろうが、いざ自分の口から説明しようとしても、実感がなく上滑りしたであろうことは容易に想像できた。
話者の意図するところを、話を聞いて100%理解するのは所詮難しいのだ。
話者が説明する時点で、話者の言葉によってすでに話はゆがみ、その話を聞いた所で歪み、さらにそれを理解するところでも歪み、ということを何度か中継・伝言ゲームをすることで、元の内容は級数的に減衰してゆくのだ。
義兵衛の頭から安兵衛さんを経由して曲淵様の頭に届くまで、5回の関門を通る。
仮に各関門で2割程度の減衰だとしても、5回繰り返すと32%しか伝わっていない。
ならば、直接聞いた方が良い、しかも事の真偽が判る者の前で、というのは道理に沿っている。
「はっ、私は初めてこのような理論があることを聞きましたが、価格の上昇・下降が起きること、物の過不足が起きることの説明として、万人が納得するもの、と感じました。義兵衛殿の申した内容には間違いございません。
しかし、このような理論をどこから……」
「そこで止めよ。それを詮索してはならぬ」
曲淵様が鋭く遮った。
「ははっ。失礼を致しました」
「それでじゃ、理論は覚えていて口外しても良いが、この場で義兵衛から聞いた、ということは忘れて貰いたい。
万一詰問されどうしても答えねばならぬ場合は、当家の安兵衛の名を出し、その旨を奉行所に届けよ。また、ここにおる者以外から、この理論と義兵衛を結びつけるような話を聞いた場合は、誰がそう言っておったのかを奉行所に届け出てくれ。
薪炭問屋の萬屋には、昨日の内に理論を語ったのが義兵衛であることは伏せるという緘口令を出しておる。こちらも、どうしてもという場合は、安兵衛を考案者として話すよう諭しておる。お婆様は悔しがっておったがな、最後は折れてくれた」
この経済理論のイロハについては、完全に義兵衛の名を隠す工作をしている。
「恐れながら曲淵様、それでは義兵衛の名誉が守られませぬ」
甲三郎さんが悔しそうに声を上げた。
「今が大事という判断じゃ。御老中様や庚太郎様も承知なさっておる。今名誉があることで、次に出て来るハズのものが失われれば、そちらの方が大損と見た。『噂されぬ義兵衛に祟りなし』と心得よ」
「しかしながら、仕出し膳の座では八百膳の主人・善四郎が義兵衛を指して『座の知恵袋』と喧伝しておりますぞ。先の満願寺での料理比べ興行で出された『幕の内弁当』は義兵衛の考案と、知る人ぞ知る噂として流れ始めております」
甲三郎さんの更なる抗議に曲淵様は平然と切り返した。
「八百膳と武蔵屋、瓦版の當世堂には昨日中に話を付けておる。噂が広まれば『義兵衛は消え、今後の知恵が得られぬようになる』と説明したら納得してくれた。『真実こそ包み隠さねばならぬ』とな。
そして『幕の内弁当』は、武蔵屋が編み出した新しい食である、と路上で読売が叫べばよい。『人の噂も75日』と言うではないか。噂は上書きされれば済む。真実なぞ民に知らせる必要はない」
皆、黙ってしまった。
「それでは、義兵衛。次、行ってみようか」
妙に明るい声を出した曲淵様に応えるように、安兵衛さんは、萬屋の畳の上に並べた図と寸分違わぬものをこの場に広げた。
『安兵衛さんは、一体いつ作る時間があったのだろうか』
始終義兵衛と一緒にいて、屋敷と奉行所を往復して御奉行様に報告し、その上でこれを作って、と、多分寝てないに違いない。
皆が図を見ている間、義兵衛は安兵衛さんの顔色を見ていると、いつもと何ら変わりなく見えるが、疲れが滲み出ている。
「さて、これの意図する所を説明してくだされ」
義兵衛は一昨日の萬屋でした説明とほぼ同じ内容を、1月には16万個不足するという所まで同じにして、語った。
それは義兵衛が一度説明し、千次郎さんがなぞってお婆様に説明したものであり、実に滑らかに説明はできた。
「それで、関川殿、これはどう見えますかな」
曲淵様が促した先に居る関川様は、顔を真っ赤にして涙ぐんでいる。
口から『なんで』と出かかっているのを、必死で止めて、プルプルしているようだ。
「これは東廻りで荷を運ぶ時に説明したのと同様に、数字を巧みに操って、何を伝えたいかという納得性を高めておりますな」
田沼意知様は意見を述べているが、前回の赤蝦夷騒ぎの時には、実父・意次様から絵図に書かれた数字の意味が分かるか下問され詰ってしまったトラウマがあるに違いなく(333話)、数字の意味を敏感に読み取っている。
「これは誠に驚きました。かくも理路整然と物事の推移を捉え、示す方法があるとは、なんともはやで御座ります。
練炭の初値を決めるにあたり、先ほどの需給均衡という話と組み合わせて需要の抑制という結論を導き出す、いや出そうとするためにうってつけの方策になっております。
失礼ながら、このような説明はまだ続くので御座いましょうか」
プルプルするのを止めた関川様がやっとの思いで言葉にした。
「いや、今日の所はここまでじゃ。だがの、この続きが聞けるかどうかは、義兵衛がことをどこまで秘匿できるかにかかっておる。そこは良く理解されたい。ワシとしては、このような図を描くやり方の有効性を理解したかったのだ。
では、御一同、今日はここまでとしたい。ご苦労であった。
義兵衛はしばしこの土蔵の中で休んで行くが良い。丁度八百膳から『幕の内弁当』が届いた頃でもあるし、ここにも届けさせよう。
ああ、皆の分もある。座敷に用意させてあるので、そちらへ案内しようぞ」
土蔵の中に安兵衛さんと一緒にポツンと残された義兵衛が「自分も座敷の方が良かった」と呟いた。
届けられた八百膳の『幕の内弁当』は、武蔵屋のものと比べると格段に華やかだった。
「御殿様は義兵衛さんのいない所でする話があるのでしょう。
ところで、この『幕の内弁当』は、昨日、曲淵様が八百膳を脅し、いや話をしに行った時に注文したそうで、お代は1個200文(5000円)だそうです。義兵衛さんに食べて頂くものだと話したら『後で感想を頂けるのであれば無償で』と言われたそうです。なので、是非感想をお聞かせください。これを聞かないと、皆の弁当代も含めて私が負担せねばなりません。
ところで、米相場の話になりかけた時に言われた『空売り』『先物取引』という言葉が気になりました」
「安兵衛さん、知りたいですか。確実に死ねますよ」
ブルブルと首を横に振る安兵衛さんを見て、義兵衛は、やっと一本返せた気になった。
次話は1日あいて、2020年9月25日0時に投稿予定です。




