奉行所の土蔵の中で <C2431>
■安永7年(1778年)8月5日(太陽暦9月25日) 憑依205日目 雨天
昨夜、萬屋での出来事を紳一郎様に報告したところ、すぐさま御殿様の面前へ引っ張られた。
しかし、そもそもの発想の発端が『練炭が足りぬなら七輪の製造を抑えた方が良い』という御殿様からの指示に基づくところから始まっていることを暗に匂わすと、それに気づいた御殿様は紳一郎様のなだめ役に回ってくれ、事なきを得たのだった。
そして、本日は御殿様の登城日ということで、供につく紳一郎様も不在となった。
ただし、義兵衛は謹慎として、終日この屋敷から出てはならない、との沙汰である。
こんな雨の日にも安兵衛さんはやってきて、ニコニコしながら告げた。
「明日、北町奉行所へお越しください。義兵衛様だけの招集ですし『こちらの御殿様・主計助殿へご迷惑をお掛けすることはない』とのことでございます。明日朝迎えに参ります。今度で3度目ですが、あの土蔵で歓迎する、と聞いています」
これは、御城から御殿様と紳一郎様が戻って直ぐに報告せねばならない案件に違いなかった。
安兵衛さんは、この伝言を伝え終わると、しばし長屋の義兵衛の部屋で休んだあと、終日屋敷から出ないことを確認し、早々に奉行所へ戻っていったのだ。
御殿様が御城から戻ると、この呼び出しを報告した。
「うむ、承知したが、萬屋でした説明を繰り返すことになるのであろう。さほど心配することでも無かろう。
それはそうと『幕の内弁当興業』の件、結構日が経っておるにも拘わらず、未だ話を聞きに来る者が居るのだ。中には、興業とのかかわり、仕出し膳の座との経緯も知らず、当家が興業の目付役を続けることを気にくわん者も居るようで、これを捌くのには難儀する。
興業の大勧進元である料亭八百膳が当家に好意的なのは知れておるが、その裏に八百膳・主人の善四郎より知恵袋と呼ばれている義兵衛が居ることまではまだ悟られておらぬ。じゃがいずれ見つかるであろう。
曲淵甲斐守殿がそのあたりも承知した上で、安兵衛殿を護衛、いやそれだけではなく万一の場合の身代わりとして付けて下さっておるのであれば、多少は安心するのだがな」
『安兵衛さんが身代わり』
義兵衛はその言葉にひっかかりを覚え、思わず声を上げた。
「気付いておらなんだか。安兵衛がこの屋敷を家臣然と入り浸れるのも、義兵衛から片時も離れぬのも、御奉行様が目付として監視しているだけではあるまい。より武家らしい安兵衛と、どこか百姓を思わせる義兵衛を見た時、どちらが知恵袋と思うかの。そういった究極の場面では『この義兵衛を侮るな』位は叫んで時間稼ぎをする積りであろうな。そういい含められておっても不思議ではない。我が身だけでなく、人を守るためにも言動には意を砕くのじゃ」
御殿様の指摘に思いあたる節があることに愕然とした義兵衛だった。
■安永7年(1778年)8月6日(太陽暦9月26日) 憑依206日目 雨天
北町奉行所の敷地の中に小振りだが土蔵がある。
そこの2階は屋根裏ではあるが、人がくつろげるように一部は畳敷きにもなっている。
義兵衛がここに足を踏み入れるのは、もう3度目になる。
土蔵の中には先客がおり、目が慣れるまで誰か判らないものの、その場で平伏した。
「義兵衛、甲三郎じゃ。健吾にしておったか」
目を凝らしてみると、もう一人居る。
「こちらは、勘定組頭の関川庄右衛門美卿殿じゃ。勘定奉行配下で、例のお上公認印を付加する方策を検討するために、奏者番の田沼大和守(田沼意知)様から御紹介頂き一緒に活動している」
「関川庄右衛門でござる。椿井甲三郎殿より、知行地には聡い者が居るとよく聞かされておりますぞ。今日は珍しい話が聞けるということで田沼大和守殿から声がかかり、ここへ参った」
どうやら義兵衛のことを『聡い者』という枠で説明をしているようだ。
義兵衛と安兵衛さんは『遅ればせながら』と自己紹介と挨拶をした。
階下からドタドタと足音がして何人かの人がこの2階に昇ってきた。
「これは涼しいが、ちと暗いのではないか。燭を何本か入れねば、これでは書いたものも見えぬだろう」
田沼大和守様と曲淵甲斐守様が入り、燭台と蝋燭を抱えた中間が続き、明かりを6本灯していった。
義兵衛と安兵衛さんは畳からはみ出す位置で平伏して控えている。
関川様と甲三郎様も同様に頭を下げている。
「これで6名揃いました。今日はそこなる義兵衛からなにやら面白い話を聞けるということで、関心がありそうな方に集まって頂きました」
曲淵様が最初に趣旨を述べると、早速義兵衛を見て田沼様が声を掛けてきた。
「6月末に父(意次様)の上屋敷で一度会っておるのぉ。赤蝦夷の件や東廻りで土を運ぶ話は面白かったぞ。父からは叱られはしたものの、その後能登の土のことは何とかなっておろう。同僚の堀田相模守も、椿井主計助殿から木炭加工による殖産を持ちかけられ義兵衛なる者が直接指導しに佐倉まで出向いとる、とか申しておった。誠に忙しくしておるようじゃな。
それで、今日は何の話じゃ。ああ、説明するのじゃから、礼儀は時間の無駄になるので不要じゃ。ここに居る面々は身内のようなものじゃ。早速始めてくれぃ」
6人の真ん中には、おそらく安兵衛さんが写したであろう需要曲線と供給曲線の図が置かれていた。
義兵衛はその図を差し示しながら、萬屋でした話とほぼ同じ説明をし、そして米価の件を付け加えた。
「米の豊作・不作で値段が上下するのも、煎じ詰めれば同じ原理と言えます。江戸には御武家様が約50万人、町民が同じく約50万人暮らしております。一人一日3合の飯を食べるので、毎日3000石、つまり7500俵の米が決まって消費されます。一方、豊作になれば米が余り、不作になれば米が不足します。これを均衡点である値段の上下で調節しているのでございます。
お上も蔵前に季毎の米価を示しておられますが、今説明したような理屈が浸透していれば、高値掴みや底値での放出などといった富の流出を少しでも抑えることができると考えます」
皆真剣に説明を聞き、腑に落ちる所まで考えこんでいた。
「こういった仕組みなので、大量の米を蓄えたまま、一定の値段で売れる様になるまで待つという方策をとると、米価はある値段の所で安定していくはずです」
田沼意知様や曲淵様はこの理屈に納得している表情を見せた。
しかし、勘定組頭の関川様だけは鋭く意見・質問を上げてきた。
「江戸はともかく、大坂・堂島での米相場の理屈はどうなっておる。そのような穏やかな理屈の話で収まるような訳ではあるまい。実際に高値・安値で米の値段は毎日動いておる。
実は、江戸の蔵前で告示する米価動向が、城下の米屋で売っておる値段の動向となかなか合致せず、札差や米問屋に美味い汁ばかり吸わせておるようにしか見えんのだ。それで江戸でも堂島と同じように米相場を立ち上げれば、蔵前で告示する米価の動向が市場の米値の動向にきちんと追従できるのでは、と考えておった者も多い。だが、何度か堂島と同じようにして蔵前相場を立ち上げようとしても一向に上手くいかず、全て挫折しておる。
何か違う理屈もあるのではと思っているのだが、義兵衛に何か思い当たるところはないのか」
大坂の堂島で世界一早い時期に相場が立った、という知識はあり、しかも米を対象にしていた、ということも知っている。
しかし、その相場でどのような立ち合いをしていたのか、という肝心の知識はなく、江戸で米相場の場を作ろうとして失敗していたことなど、知るハズもない。
ましてや、その失敗の理由を求められても困ってしまうのだ。
ここは一般論として何か考えるヒントになるようなものを返せないか、とは思うものの、なかなか浮かばす返答に窮してしまった。




