需要曲線と供給曲線 <C2430>
「それで、ここから検討が始まるとおっしゃいましたが、売り出しの時までに採れる方策で何か良い案はお持ちなのでしょうか」
感心しているお婆様を横目に、千次郎さんはおずおずと尋ねてきた。
「はい、もちろん案はあります。それは価格による抑制です。安ければ売れ、高ければ買いにくい、ということは判りきっています。
今、七輪は1000文、練炭は厚が普通のものは200文、4分の1にした薄厚練炭は65文と考えていると思いますが、最初は思い切った高い値段を提示してはどうでしょう。
新しい物ですから、値段の比べ様がありません。最初に安い値段を出してしまうと、それが普通かとお客は思いますし、後から品薄になって値段を上げると、店が値段を釣り上げたように見えます。最初の2ヶ月は『萬屋の意のまま』と聞いていますので、どこからも文句はないでしょう。
気付く可能性があるとすれば、江戸に練炭を運んでいる富塚村の川上右仲さんでしょうが、価格構造のことまでは、名内村の名主・秋谷さんや工房責任者の血脇さんが話していなければ、知らないと思います。佐倉藩の御武家様達には儲け話の一環として説明しましたが、おそらく江戸で1個がどの程度の値段なのかを知る機会は、直ぐにはこないと思います」
義兵衛は予定価格を高くし、結果として混乱を防いだ事例に、先の満願寺での裏話をした。
「当初80文で仕入れた幕の内弁当を100文(2500円)で売るつもりだったようですが、人出が多いことを見込んで急遽160文(4000円)に看板を書き換えたのです。その結果、興業を見るためだけに来た、懐にきっちり100文しか持っていない人は、端から買うことを諦めたため、約5000人もの参拝客がいたにもかかわらず、1000個の幕の内弁当で済んだ、ということがありました。最初話を聞いた時には、満願寺の企ては無謀とも思えたのですが、全く新しい『幕の内弁当』については適正価格が判らないことが幸いしてか、この点についての批判はなかったようなのです。むしろ、160文にしたからこそ、これを買えた人は満足していた節さえあります」
お婆様は、まだ手にして食べていない『幕の内弁当』のことを話そうとしたようなのだが、その機先を制するように千次郎さんが尋ねてきた。
「では、義兵衛さんは最初の小売価格として、どんな値段を提示するのが妥当とお考えですか」
「今年の春、登戸村の中田さんの支店で試しに練炭を売っております。その時の比較的高い値段を付けたにもかかわらず、実際に売れた値段が300文(7500円)でしたので、普通練炭は300文、薄厚練炭は100文(2500円)、七輪は1500文(37500円)と、最初の想定価格の5割増しで始めても良いと考えます。そして、売出当初の値段を上げることにより、需給の均衡が需要抑制側に働くと考えます。勿論、この価格を続ける限り需要そのものが抑え込まれます。なので、どこかの時点、例えば11月になった時点位で予定価格まで引き下げ、需要を喚起する必要はあるでしょう。
この登戸村の実績から、江戸の市中では価格の均衡点が200文と300文の間にある、という仮定で考えているのです」
いつもは黙っている安兵衛さんが珍しく口を挟んだ。
「商家では当たり前の用語なのかも知れませんが、義兵衛さんが時々口にされる『需要』『供給』『均衡点』とは何でしょう。『価格』が物の値段ということだけは判りますが、今のままだと私は中身をさっぱり理解できないまま、御奉行様に説明しなければならないのです。それはきっと地獄の責め苦を味わうようなものです」
安兵衛さんは最初に千次郎さんを見たが、千次郎さんは首を竦めた。
次に、お婆様を見ると小さな声でブツブツと言うのが聞こえる。
「需要ってのは、お客様が欲しがる度合いかな。それで、供給ってのは、店が出す売りたい度合い。均衡点でのは、釣り合いということなんだろうけど、改めて思い起こすと、この言葉を口にしているのは義兵衛様だけだし、わたくしもちゃんと知っている訳ではないのですのよ」
ここで、安兵衛さんは義兵衛の方へ身を乗り出してきた。
「これは済みませんでした。値段が決まる基本的なところと思っていたのですが、説明が足りていないことが今判りました。大雑把ですが図に書いて説明します」
半紙2枚を取り出し、右端に値段・価格、下側に個数・数量、1枚目の上側には需要、2枚目の上側には供給と書いた。
大番頭の忠吉さんまでも身を乗り出してきている。
「まず需要、まあ買う気、という言葉でも良いですが、お客の思いですね。安いと買う量は増えますし、高いと買い控えします。なので、お客様の行動は右肩下がりの線になります。
次に供給、さっきの言い方ですと売る気、物を作る方を含めてお店側の思いですね。安い物より高い物のほうが売る気力が出ますよね。逆に同じものの値段が下がってくると、売る気力が失せます。なので、お店側の行動は右肩上がりの線となります」
それぞれの図をよく見て、書かれている線の意味を理解してもらう。
「この2枚の図を重ねます。すると、線が交わる点が出来るでしょう。ここが均衡点で、この値段・数量が適切な値となるのです。
均衡点の少し下側の所を横に見ると、左側が売る数量、右側が買いたい数量で、この2つの線の差が不足する個数となります。なので、どうなるかと言うと、値段を均衡点まで上げて、もしくは均衡点に向かって上がっていくことになります。
同様に、均衡点の少し上側の所を横に見ると、今度は左側が買う数量、右側に売りたい数量となります。この差が売れ残りの個数となります。なので、今度は値段を均衡点まで押し下げることで売れ残りを解消しようとする動きになるのです。
原理はこんなところです」
誰も何も言わず、ただ驚いた顔をして固まっている。
「米の豊作・不作で値段が上下するのも、煎じ詰めれば同じ原理と言っても良いかも知れません。
それで、今回の場合、練炭が不足するということなので、均衡点を狙って値段を上げても良いのかなと……」
「母上、これは……」
「知らん。知らなんだ。こんな理屈、今まで見たことも、聞いたこともない。
それは商人ゆえ、物が足りぬと値段が上がる、余ると値段が下がる、それは判っては居りますが、それを判るように理屈で説明するなんぞ、わたくしは全く存じませぬ。
この話だけで、これを教えようとするだけで、どれだけ大勢の者が教えを請いに押し寄せるか、ああ、もう想像も付きません」
お婆様はこう言いながら絶句した。
そういえば、この件は実父・百太郎には少ししていたが、ここまでインパクトがあるとは思っていなかった。
商いを専ら行う商家だけに、敏感な反応を示しているのかも知れないが、経済の仕組みを学ぶための最初のステップである需要曲線と供給曲線の説明だけでこうなってしまった。
「義兵衛様、仰られるように初値は想定価格の5割増しの値段で行きます。また、畳の上の数字、特に『比』の所について、こちらでも考えてみますので、まとまった時点で御意見を聞かせてください。
それから、割り増しした結果得られる余剰利益についてですが、義兵衛様には半分お返しします。普通練炭ですと100文余計に利益を得ますので、その半分の50文は義兵衛様の個人のお金としてお持ちください。これは、今回お教え頂いたことに対する萬屋からのお礼とさせてください」
義兵衛はその申し出を有難く受けた。
そして、横に居た呆れ顔の安兵衛さんはこう言い始めた。
「義兵衛さん、これはもう私から御奉行様に報告できる内容ではありません。間違いなく呼び出されると思いますので、今から覚悟を決めておいてください」
呆れ顔をした安兵衛さんからの宣告を聞いて『どうやら、またやらかしてしまったようだ』と気付いた。
そして『せめて、御殿様と同伴で呼び出されなければ、紳一郎様に叱られずにすむのに』と変なことばかり頭に浮かんでくるのだった。
次回投稿は2020年9月21日0時予定です。




