表計算ソフトだと早いのに <C2429>
「義兵衛さん、それは私も是非知りたい」
千次郎さんも身を乗り出してきた。
「この件は、最初に七輪の委託生産を切り出した頃、確か3ヶ月程前の5月頃(196話)に似たような話をしております。
千次郎さんは『七輪を8万個売ると240万個の練炭が使われる』と言っておりましたが思い出されましたか」
「いや、確かその時期は仕出し膳の座の最初の興業準備で、動いていた時期だったので、あまりよく覚えていないのだが……」
「同じ問屋の旦那衆のひとり、奈良屋重太郎さんに行司役を譲ることで、萬屋の後ろ盾になってもらおうと考えた時のことですよ。それが今、佐倉での木炭加工につながっているのです。
それで、その時に七輪1個で年末までにおおよそ30個の練炭を使う、と考えておられたのでしょう。あれの逆をすることを考えるのです。
簡単に言うと、来年の3月末までの7カ月で丁度使い切る数の七輪しか売らなければ良いのです。極端な例を挙げれば、七輪1万個だけしか江戸の中に無ければ、毎夜使った所で消費す練炭は1万個なので、充分足るだけではなく、80万個は在庫として残ります。
では、一体どの月に何個七輪を売ると3月末に手持ちの練炭が丁度無くなるのか、を想定して七輪を売ればよいのです」
あの頃は、まだ安兵衛さんはではなく奉行所・同心の平塚様がよく顔を出してくれていたのを思い出した。
そして、その時の義兵衛は、10万個の七輪を売りさばくつもりでいたのだ。
「実は、2ヶ月程前になるのですが、御殿様から『練炭が不足するなら、七輪を年内10万個を全部売るのではなく、半分の5万個でも良いのではないか』(369話)と示唆されております。それを受けて、深川の辰二郎さんの所へは、年内の生産数量を10万個から8万個に減らしてもらっているのですよ」
どうやら安兵衛さんも2ヶ月程前の時のことを思い出したようだ。
「具体的に策を練るために概念を現した表を作りますよ。座敷の床に広げたほうが楽なので、ここを片付けてください」
座敷の真ん中の2畳ほどの場所を開けて、そこに義兵衛は大福帳から半分に切った紙に数字を書きつけ、並べていった。
「月」「 9」「 10」「 11」「 12」「 1」「 2」「 3」
「炭」「80」「 30」「 30」「 30」「 30」「 30」「 30」
「比」「 5」「 15」「 20」「 25」「 15」「 10」「 5」
「売」「60」「 40」「150」「100」「 50」「 50」「 20」
「累」「60」「100」「250」「350」「400」「450」「470」
「消」「 3」「 15」「 50」「 88」「 60」「 45」「 24」
「残」「77」「 92」「 72」「 14」「▲16」「▲34」「▲28」
*紙面には算用数字ではなく漢数字で記載
例:「350」は「参百五拾」
「『比』の項目は、七輪1個あたり月何個の練炭を使うかの目安です。12月、1月は沢山使うと見ています。このあたりは、私の感覚で適当に付けていますから、昨年の木炭の売れ行きなどを参考にして書き直してください。
『売』の項目は、七輪の売り出し数量で100個単位です。『累』の項目は七輪の出荷累計です。この出荷累計に比の数を乗じたものがその月に消費される練炭の個数で1万個単位です。これが『消』の項目です」
なんのことはなく数値の表計算シートを、そのまま畳に広げたものを提示したのだ。
ただ、自動計算機能はないので、変更の都度算盤を弾いて数字を書き直す必要がある所が難点となる。
セルに相当する紙片の数字を変えると、関連するセルの数字を逐一改めねばならないところが煩わしい。
江戸時代なので、そこはどうにもならないことなのだ。
いや、昭和の時だって表計算ソフトが普及するまではブロック用紙を使って手計算していたのだ。
よう知らんけど。
「『炭』の項の累計から消費していく炭の量の累計を引いたのが『残』の項目で、どの時点でも0より小さくならないように七輪の月辺りの販売数量を再設定すれば、練炭が不足する事態は避けることができます。1個所書き直すとあちこちと沢山の再計算がいりますがね。
ああ、これは年内はなんとかなりますが、来年1月には16万個不足しますね。これでは、七輪を売り過ぎでした。どこか売る量を減らすしかないですね。もしくは、佐倉藩からの生産に期待するか。
12月までに日産5000個になっていれば、どうにかなるのか。いや、2月にはそれでも不足するのか。
まあ、こんな感じにまとめると、色々と検討することができるのですよ。
この表で客観的に変えることができるのは、『比』の項目です。ここはしっかり見通しておく必要があります。それから、恣意的に変えることが出来るのが『売』の項目です。月辺りの七輪の販売数量を枠内に制限することで、消費する練炭の量、つまり需要を抑えることができるのです」
義兵衛が畳の上に広げた沢山の紙片を、千次郎さんは唖然として見つめている。
千次郎さんも商人であるから、おおよその見当はつけながら商売をしており、無意識に似たようなことを考えているには違いない。
しかし、このように見通しを得るために可視化したことはなかったのだろう。
「おい、誰か。お婆様を大至急呼んできてくれ。急いでだぞ。
それと、忠吉、この畳の図を直ぐに写せ」
千次郎さんが大声で叫び騒然となる中、すでに安兵衛さんは矢立てと帳面と取り出し悠然と模写を始めていた。
「これはなんと面白い。先を読むというのは、こういうことなのですか。これは是非報告しなければ」
安兵衛さんは冷静なようでいて、思ったことが口から駄々洩れさせてしまう程、呆けていた。
「いや、これは暫定的に練炭の過不足を見るためのひとつの手法で、売る側の勝手な思い込みで作っている表です。
9月に七輪を6000個売って、練炭が5万個売れるというのは、実際にそうなるという訳ではないのですよ。ちゃんとお客さんが買ってくれるかは、実際に売ってみるまでは判らないのです。それに、例えば9月早々に6000個売り切ってしまった後をどうするのか、とか、売り切れなかった場合のことは、まだ一切考えていないのですよ。
この畳の上の図は、そういった先を検討するための最初の一歩に過ぎないのです。
金程村で工房の数字を管理している春さんも、これと似たようなことをしていますよ」
あまり考えずに当然の事と思って作った表への反響の大きさに驚いた義兵衛は、照れ隠しのように説明を付け加えたが、礼賛が終わる景色はない。
そこへ息を乱してお婆様が飛び込んできた。
「千次郎。何事じゃ。おや、これは義兵衛様も居られるではございませんか。一体何事でございましょう。
それはそうと、先日の『幕の内弁当興業』の大成功、おめでとうございます。地区予選で格下興業などの下評判でございましたが、蓋を開けてみればお忍びとは言え御三家の御殿様も御興味を持たれる格の高い興業、しかも本邦初の『幕の内弁当』の売り出しと、結果を見れば、誠に素晴らしい興業と大評判です。そこにこの萬屋もかかわっていると、本業ではない箔が付いてきて、話題にはこと欠かない有様です。
ええ、商家の商いは信用と良い噂でございます。今回の『幕の内弁当』は、義兵衛様のお知恵と武蔵屋さんからつい先日聞かされ、わたくしも大層驚きました。いえ、やはり義兵衛様かと納得致しました。……」
途切れないで話しが続く所を、千次郎さんが遮った。
「母上、申し訳ないですが、一端話すのをやめ、聞いてください。この畳の上の図、私はこれまでに見たこともないものですが、義兵衛さんが教えてくれたのです。母上なら覚えがあるかも、と思い来てもらったのです」
千次郎さんはお婆様に畳みの上に並べられた数字が書かれた紙片を指さしながら、ことの次第、表の意味を説明し始めた。
傍らでは、大番頭の中吉さんが写し取った図に千次郎さんの説明を書き加えている。
「ほう、これはなんということでございましょう。商売の奥義、なのでしょうか」
お婆様は、この表の意味する所を悟ったのか、感嘆の意を表した。
本文の途中の表ですが、キャラクタで作ったため見難いかもしれません。1行の文字数が少ない画面でご覧になっておられる方、御容赦ください。




