細山村樵・佐倉から江戸へ戻る <C2425>
■安永7年(1778年)8月1日(太陽暦9月21日) 憑依201日目 雨天(昼間一時的に晴)
義兵衛と安兵衛さん、それに細山村の佐助さんを頭とする樵家の6人を入れた8人は、佐倉街道を江戸に向かって進む。
臼井宿、大和田宿、船橋宿、八幡宿を経由し、水戸街道の新宿追分に出て、千住大橋を渡って江戸に入る。
千住大橋までおおよそ11里(44km)、千住大橋から江戸屋敷までは1里半(6km)の行程となる。
義兵衛は、路銀として御殿様から拝領したお金を、木野子村の宿舎に寝泊りしたため、ほとんど使っていなかった。
それは、名主の彦次郎さんから借りた家に女中衆も付けられており、宿代も食費も名主持ちだったからなのだ。
懐が温かい義兵衛は、一行が船橋宿に差し掛かる前に、寒川湊から江戸へ向かうにあたり船便を使うことを佐助さんに提案した。
「皆もわずか1ヶ月で100貫という大きな炭焼き窯を6基もこさえ、炭焼きの秘訣を木野子村の面々に教え込むのは、さぞかし大変だったことだと思う。気を抜く暇もなかっただろう。幸い、路銀も余っていることだから、このまま佐倉街道を歩いて江戸に向かうのではなく、途中から舟に乗って行ってもいいと思ったのだが、どうだろう」
義兵衛が舟に乗ろうと提案した港は、都川河口付近の寒川湊(現:千葉市中央区寒川町2丁目近辺)で、ここは佐倉藩の米を江戸に送り込むための積み出し港として発展していく。
来年かもっと先になるかも知れないが、佐倉藩での練炭の生産が大きく伸び、萬屋さんを経由しないで他の木炭問屋を使い始める辺りから、このルートを使うに違いないと見込んで偵察をしておきたい、という意味も含んでいた。
もっとも、当分は萬屋さんルートを選ぶ一択であり、千住大橋を渡って金杉村・根岸の蔵に運び込む陸路しかないのだ。
「義兵衛様、ワシ等に気を使って頂くことはありません。働くのには慣れております。まあ、暑い盛りは少し参りましたがな。
それに、前に来られた時、賃金として小判を配られましたよな。皆順番に休んで佐倉の街へ珍しいものなどを買いにも行っておりました。
後で名主の彦次郎さんに聞いたのですが、義兵衛様は佐倉藩の工房で使う木炭を先払いされたとか。木野子村で炭焼き窯を作りましたが、今回、名主さんから代金はいかほど受け取りましたかな。おそらく一文も受け取ってはおらんのでしょう。そりゃ、家や女中衆を勝手にしてよいと彦次郎さんが言われるのも道理です。
工房を仕切る勘定方の吉見様にも、工房を建てる代金をお貸ししたとも聞きましたぞ。そういったこともあって、義兵衛様の様な若造からお説教のような話をされても、黙って聞いておられたのではないですか。
助太郎さんだって、弥生さんも、働き詰めじゃないですか。名内村で練炭の作り方を教えて、ちゃんと代金は貰いましたか。木野子村ではどうなっておりますかな。
こうして並べてみると、ワシ等に言わせてみれば、義兵衛様はただの大馬鹿者です。
金の成る木がある訳でもなく、金程村の工房で作った炭団を汗水垂らして売りさばいて得た金を、他所の殖産のためにバラまいているだけじゃないですか。
御殿様から貰った路銀だって、自由に使っていいお金じゃないでしょう。今の里のことを考えたら、大事にしなきゃいかんのじゃないですか。ワシ等を喜ばせる必要はどこにもありません」
怖い顔をした佐助さんに、思わず説教を食らってしまった。
「いや、そこは長い目で見て回収の目途はちゃんとついているから、佐助さんが心配することじゃないですよ。名内村や木野子村で作った練炭から、ちゃんと御殿様の所や里に利益が流れるように仕組んであります。
確かに今までに支払った金額をそこから取り戻すのには、多少時間がかかるかも知れませんが、狙った通りの数を作ってくれれば年内には取り戻せる予定になっています。それを助太郎も判っているから、早くその狙いの数量を作ってくれる様に必死になっているのです。
でも、事情を知らなければ、そう見えますよね。そして、もし練炭が売れなければ、考えたくはありませんが、私は地獄に居ることになります。確かに大事にしなければいけないお金でした。今丁度雨が降っていないので、急ぎましょう」
確かに、練炭を卸す先の萬屋で、1個あたり10文の口銭が入るということは、どこにも言っていない。
実際には紙の上の数字だが、名内村の現在の日産5000個というのは、毎日義兵衛の管理する別台帳に金12両2分が積みあがっているのだ、ということは極々一部の人しか知らないことなのだ。
これは、佐倉藩での取り組みでも同様で、萬屋に卸すと口銭が勝手に積まれることになっている。
そういった話は絶対に出してはいけないことの一つなのだ。
もっとも、練炭が売れなければ、ただの紙の上の数字、いやそれどころか膨大な借金を抱えることになると判ってはいるのだ。
義兵衛は、佐助さんの言うことをあっさり受け入れた。
夕方、雨がまた降りだす前に一行は椿井家の江戸屋敷に到着した。
安兵衛さんは律儀なことに門前まで一緒にきてから奉行所に向け来た道を戻り、佐助さん達は長屋の空き部屋に入ってもらった。
義兵衛は、紳一郎様に帰着報告をし、路銀の残金として銀90匁(15万円)余りを返却した。
結局の所、使ったのは行きも含め、皆の茶屋代でしかない。
「佐倉での首尾はいかがであった」
「なかなか難しい感じです。まずは日産500個を目標に準備をすすめてきましたが、軌道に乗せるには結構な期間が必要となりそうです」
木野子村で、御武家様が参加している立場と、奉公人が指示された作業をしている状況を説明し、自主的な増産意欲が出るようになるまで、つまり実際に儲かるということが実感されるまでは、なかなか進まないのではないか、との推測を述べた。
「要はやってやろう、とする気が、今の時点で武家・奉公人の双方の組とも、そもそも希薄なのです。助太郎には気の毒ですが、やる気のない御武家様と言われたことしかしない奉公人の間を当面つないで、それでも練炭を1個でも多く作ってもらうよう働き掛け続けるしかありません。
今回参加された10名のお武家様の気持ちも良く判らないのですが、次男より控えた所に居ることになる三男以下というのはこういったものなのでしょうか。
甲三郎様から感じていた印象と、佐倉藩の部屋住み達の放つ印象が随分と違うのです。こういう言い方は大変無礼かも知れませんが、椿井家の御殿様の御兄弟の方が変わっている、世間一般の部屋住みの方と違っている、と思い直しているのです」
紳一郎様は難しい顔をされて報告を聞いていたが『御兄弟が他の御武家様と違うのでは』のくだりでは、頬をゆるめていた。
「そうであろうな。どれも、寺子屋の制による影響じゃろうな。義兵衛とて次男坊であろう。にもかかわらず、我武者羅に生きておろう。与えられるものだけで満足せず『目標を持ち、よりよく暮らすために努力するのが人』ということを叩き込まれておろう。
寺子屋の制は面白い仕組みじゃて。あそこが人を育てる原点、椿井家の核心よ。
椿井家の風を見て、習おうとする所も出て来るであろうな。ただ、今のような状態になるのに3世代もかかった。核心が見えたからと言って、そうそう真似はできんだろうな。
御殿様から聞いた様子では、田安家の定信様の所が一番真似してきそうだが、白河藩はいずれ手放すのであろう。すると定信様の信奉者に目される水戸様の所が一番手か。御三卿と御三家、こういった格上の所が手を付けると、大名家にも流行るか」
紳一郎様は途中から自分の中の世界に入ったようで、義兵衛は、繰り言をブツブツ言っている紳一郎様を見て唖然とした。
そして、事なかれ主義と思っていたハズの御殿様が『奏者番の堀田相模守様に恩を売っておけば都合が良い』という様な、今までは感じたこともない発言があったことを思い出した。
御殿様ほどの人が、立場で人が変わったとも思えないのだが、ご多分に漏れず、紳一郎様もなにがしかの影響を受けているようだった。




