木野子村での慌ただしい生産準備 <C2424>
10月末までに米40石分の木炭、と口では簡単に言えるが、木炭は1000俵もの量になる。
直行率(ざっくりと書くと、作った製品の内どれだけ合格品となるかの比率)の実績は、金程村97%に対して名内村は現在65%とまだまだの水準なのだ。
ここの管理・改善具合にもよるが、名内村相当だと仮定すれば、1000俵の木炭から累計7800個の練炭が生み出される、という数字になる。
不合格の練炭は破棄されるのではなく、原料に回されるので無駄にはならないが、掛けた労力が無駄になるのだ。
いずれにせよ、これから3ヶ月で累計7800個では、手も足も出ない水準なのだ。
当面、日産500個、9月からは日産5000個位にはならないと、江戸での練炭は間に合わない。
だが、いざそうなると、早々に木炭不足となる事態が想定された。
木野子村の周囲の村でも木炭作りを仕掛けねばならないのだが、それは佐倉藩としての仕事であり、もはや義兵衛達の出る幕ではなかった。
ただ、義兵衛は佐倉の工房による練炭作りが最初から困難に突き当たり、挫折しないように陰ながら環境整備をしていたに過ぎない。
日産500個でも金16両になることが、御城の勘定方・御老中・御殿様と順番に浸透していくだけで、それで藩が潤うことが判ってくればいいはずなのだ。
その実績をもとに、殖産興業したい藩は、組織力を使って急速に立ち上げてくれるに違いない。
「先を見通すと、やはり、粗製乱造の弊害をきちんと頭に叩き込んでおくしかないか」
義兵衛は先のことを考えながら、ついポロリと愚痴をこぼした。
そして、今後の進め方について助太郎と熱心に意見を述べ合ったのだ。
■安永7年(1778年)閏7月25日~30日(太陽暦9月15日~20日)
憑依195日目~200日目 6日間の内、晴天2日・曇天1日・雨天3日
義兵衛は、当面の生産目標である日産500個を維持するために必要な管理についての説明を、11人の御武家様に理解してもらう傍ら、助太郎と弥生さんは6人の奉公人を中心とし、その配下の21人について適性に合わせた作業割り振りを行い、合否はともかく、かろうじて生産できる体制を作り上げた。
たった6日で奉公人の割り振りができ、生産体制が整う、というのは助太郎の能力と経験による所が大きい。
ただこれには弊害があり、助太郎が指揮して実質的には動く体制・組織になってしまっていたのだ。
もちろん、中央の作業場で練炭製造作業のお手本となっている弥生さんの力も大きい。
これを徐々に治右衛門さんに引き取って貰わないと、助太郎は身動きが出来ないのだ。
御武家様と奉公人が全員揃った25日の夜、助太郎が弱音を吐いていた。
「義兵衛さん、それは判っているのですが、私には治右衛門さんや御武家さん達をどう扱っていいのか、手に余るのです。
奉公人たちは、特に責任者の6名はしっかりと指示に従って動いてくれますし、その配下の者達も責任者の言うことをちゃんと守り汚れることも厭いません。しかし、御武家さん達は、将来練炭作りを管理する立場でありながら、木炭や粉炭に触ろうともしないのです。これでは肝心な時に、例えば製品の品質に問題が起きた時に、何の役にも立たず現場を混乱させるだけです。
せめて、何度かは自分の手で木炭を擦り粉炭にし、捏ねて型取りして、練炭を作ることを経験してもらわねば、先がありません」
言っていることは真っ当で一考の余地はあるが、とりあえず宥めた。
「名内村の血脇三之丞さんは、どうだったのかな。作業している皆と同等の作業もできたのかな。多分そうではあるまい。ここでは、その三之丞さんがまとめて10人居るというだけだと思ってくれ。ただ、それでも現場が何をしているかは、各自の経験として知っておく必要があるのは言うまでもないことだ。
どうやら、金程村の工房の在り方のほうが、よほど特殊だぞ。あれが見本・お手本と思わないようにしたほうがいい」
そういった経緯もあり、義兵衛は翌26日の講義の中で「27日の午後は、皆さんに練炭を作るというのはどのような作業なのか知ってもらう必要があり、実際に作業をしてもらいたい。ついては、粉炭で汚れても良い服装の準備をお願いする」という趣旨の依頼をした。
27日の午後は、奉公人達は清掃などの軽作業を行う傍ら、御武家さん達の邪魔をしないよう注意されていた。
そして、義兵衛と助太郎が丁寧に説明・指導する中、合否はともかく、各人木炭の塊から各自2個の練炭を作り上げたのだ。
その夜、内輪での席で助太郎が切り出した。
「義兵衛さん、今日は上手く指導してましたが、何か人に教えるコツというものはあるのでしょうか。是非、秘訣を教えてください」
「そうさな、前に神託を受けた時に一緒に伝えてきた印象に残った短歌があって、それが秘訣と言えばそうかな。ええと、確か『やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ』だったかな。語調・語呂が良くて覚えやすいし、上手くまとまっている短歌なのだ」
義兵衛の内なる竹森氏は『山本五十六』と吠えているが、以前の塩原多助で懲りていたので抑え込んだ。
義兵衛の短歌を聞いて安兵衛さんが急に身を乗り出してきた。
「これは、面白い短歌を御存じですね。それともご自分で作られましたか。
それは不問としても、人を動かす要諦を見事にまとめています、これは。江戸の奉行所に戻って御殿様に報告したら、きっと喜ばれますよ。忘れないように書きつけておきます」
安兵衛さんは矢立と帳面を取り出し、小型の巻物を相手に、さらさらと書き足していく。
「褒める、ですか。そりゃ難しい。簡単なことが出来て褒めたら、矜持の高い御武家様ほど馬鹿にされた、と思うかも知れません。
褒める相手の褒められて嬉しい所を予想しなければいけない。そこが私にはかなり難しい」
「助太郎、よくぞそこに気付いた。だから『させてみせ』で相手をよく観察するのさ。『させた』時、何を考えながら、どこに意識を集めているのかを見て『よくぞそれに気付かれた』と終わった直後に言うのがコツかな。木炭の質を一発で見抜ける助太郎なら、動作や言動を隠すことなくさらしている今の10人ならよく観察していれば、なにがしかのものが意識にひっかかるハズだ。
ああ、練炭作りが体に沁み込んでいる弥生さんは、無念無想の世界で作業できるので、観察しても褒めるところが実はもう無い。強いて挙げれば『よっ!名人』かな」
この言い様に助太郎も安兵衛さんも噴き出し、弥生さんは頬を赤らめた。
28日は通常通り二手に別れて御武家様には義兵衛が解説し、奉公人には助太郎が指示を出しながら本格的に練炭作りを始めた。
奉公人だけで生産を開始した28日は全部で80個作り上げたが、合格品は18個で、内16個は弥生さんが見本として作ったものだった。
もちろん、その前日に御武家様が作った計22個は全数不合格品だった。
29日には、前日までに作られた102個の練炭をずらりと並べ、御武家様11人、世話掛かりも含めた奉公人全員30人を前にして不合格品を出荷してしまった場合の影響について義兵衛が解説し、その後、助太郎が不良と判断する基準などを説明した。
そして、充分に時間を取って102個のそれぞれの練炭を検め、その合否を手にとって吟味できるようにしたのだ。
30日、義兵衛が御武家様に講義する最終日、義兵衛と助太郎が分析・推定した不合格原因について御武家様に詳細な解説を行った。
当然、この不合格品を出荷しないことが管理の要であることも叩き込んだ、つもりである。
同時に、助太郎は84個の不合格品の練炭について、1個毎に不良となった推定原因と、その対策を奉公人へ説明した。
そして、事前準備は一応ではあるが、ここで完了したのだった。
ついでではあるが、木野子村の炭焼き窯は、佐助さん達のものすごい頑張りで1度に100貫作れる窯を4個も作り、計6窯で運用できる恰好となっていた。
もっとも、まだ火入れもできていない窯が内2個あり、それをどう使うかは、名主の彦次郎に任されることになっていた。
「いよいよ明日から正式な生産開始だ。そして、助太郎と弥生さんだけになるが、しばらくはこの体制で頼むしかない。不安な面も多かろうが、ここは助太郎に頼むしかない。
今使っている家は、窯指導をしてくれた椿井家にずっと貸してくれるそうだ。助太郎達が居る間は彦次郎さんの所の女中衆が一切の面倒を見てくれる約束になっている。それだけの変化・恩恵を木野子村にもたらしたのは、確かだしな」
そして、義兵衛と安兵衛さんが、細山村の樵家の一行と一緒に江戸へ戻る日がやってきた。
今週は金曜日(2020/9/18)まで連続投稿します。




