佐倉への経由地、名内村 <C2420>
■安永7年(1778年)閏7月21日(太陽暦9月11日) 憑依191日目 曇天
昨日の興行後の宴での話は、御殿様から直にではなく紳一郎様からその一端だけ聞かされた。
実弟・壬次郎様の推挙のことで、曲淵様から御老中・田沼様へ直接相談する手はず、とのことだった。
興行後の宴では、水戸中納言様と親しく話すこともでき、良き面識を得たそうだ。
ただ、このような裏に近い人脈の繋がり・広がりを他家に察知されると、たかだか500石の旗本とは言え色々とやっかい事を頼まれることも多くなりそうなことを御殿様は心配されている。
そして、磯野家の推挙についても、見込みがあるなら、形ばかりにせよ自らが猟官活動をした格好にしておくよう壬次郎様には言っておるそうだ。
なんとも用心深いことだが『出る杭は打たれる』『雉も鳴かずば撃たれまい』という諺もあるように『何事も目立たないことが良い』とまだ考えておられるようだ。
勘定奉行支配の奉行職となった今、なかなかそれは難しいようにも思えた。
現代社会からすると、部長・課長といった立場なのだから、それなりの責任と見合う権限を持たされているハズなのだ。
今日は御殿様は登城の日であり、屋敷には不在となっている。
昼近くになり、佐倉藩江戸屋敷を経由して、佐倉藩勘定方の吉見治右衛門様からの書状が届いた。
木野子村に最初の工房を立ち上げた旨と、生産開始にあたっての技術的支援を求める内容だった。
まずもって、貸し付けた金100両のお礼、そして木野子村での木炭生産に向けた下準備、特に細山村の面々を技術指導者として派遣してくれていたお礼など、前半はお礼尽くしであった。
そして、後半は、木野子村工房の建屋が出来たので、練炭を作り始めるための支援を求める言葉で埋め尽くされていた。
「この要請が料理比べ興行の前でなくて助かった。どうやらまだ運はあるらしい。興行の反省会には出れないが、そこは善四郎さんが上手く締めてくれるだろう。なにせ仕出し膳の座の手伝いは、副業みたいなものだから」
「いえ、義兵衛さん。副業だ、なんてちょっとでも匂わせたら膳の座の皆さんからは大反発ですよ。今回の興行は『幕の内弁当興行』なんて、とんでもない名前が付くことだってありそうじゃないですか。私の目から見ると、手伝いなんて話じゃ済みませんよ。ほんの数日の間に、まるで新しいものを作りだしたのですから」
安兵衛さんはそう言うが、料亭がらみのことは、練炭・炭団を売るための手段に過ぎないのだ。
そう考えると、木炭加工も、飢饉に備えて米を買うための手段に過ぎない。
だが、こういった一手一手の積み上げが大切なのだ。
義兵衛は御殿様と紳一郎様が御城から戻られた後、報告する場を得て書状を見せた。
「このような事情で、明日にも佐倉へ向け出立致したくお願い申し上げます。また、帰着につきましては、木野子村で木炭作りの支援をしております細山村の樵家の者と一緒に、来月頭には一度は戻りたいと考えております」
「うむ、承知。まずは日産500個が目標であったかな。現場を任される助太郎には苦労を掛けるが、ここがお前にとっても勝負所であろう。
ここで上手く恩を売っておけば、奏者番の堀田相模守(佐倉藩11万石藩主)殿にも覚えが目出度くなるであろう。そうすると、ワシにとって実に都合が良いのだ」
御殿様はさらっと本音らしきものを漏らした。
しかし、それに突っ込むほど義兵衛は無頓着ではなかった。
政治向きの話は煩わしいと避けてきた御殿様であったはずなのだが、このところ高位の方との交際を強いられる環境で、考え方を少し変えたのかも知れない。
『本音はほっておいて欲しいなんだろうけど、どうせ巻き込まれるなら、少しでも有利な立場でいたい。自分の意思を無視され抑圧される破目にはなりたくない、という気持ちの変化ではないのか』
久々に竹森氏の意思が聞こえてきて、義兵衛はなるほどと納得した。
御殿様の承知の声を聞き、紳一郎様は約10日分の路銀として銀120匁(20万円相当)を大小取り交ぜて手文庫から取り出し渡してきた。
「この路銀、安兵衛殿の分はございませんぞ。御奉行様に報告してちゃんと必要な額だけ貰っておくのですぞ」
役目として同行しているのだから当然のことなのだが、いつも一緒に居るからなのか、安兵衛さんをつい椿井家の者と勘違いしそうになっている紳一郎様だった。
なので、こうやって時々自分に言い聞かせているのだろう。
安兵衛さんはニヤニヤしているが、その懐が結構潤っていることを義兵衛は知っていた。
■安永7年(1778年)閏7月22日(太陽暦9月12日) 憑依192日目 雨天
佐倉に行くにあたり、まず名内村に寄って一泊する予定で街道を歩む。
雨が降ると、途端に歩みが遅くなるが、そこは慣れた道筋であり、松戸から鮮魚道を迷わず選ぶ。
雨脚が強くなければ夏場の晴天下に進むよりは多少ましかも知れない。
この雨は夏の終わりを告げるものなのか、涼しくも感じるのだった。
夕刻には名内村に到着し、助太郎達が寝起きする代官宅に落ち着いた。
「御殿様が助太郎のことを気にされていたぞ。ずっと現場に張り付いていて、苦労を掛ける、とな。多分、叙任の宴に呼べなかったことも気にされたのであろう」
会うなり冒頭一番にこう声を掛けたが、肝心の助太郎は、きょとんとしている。
普通の武家なら『御殿様が直接意識してくれる』『直接名を呼ばれる』ことが誉であり、本人の忠義の証である。
義兵衛も御殿様の近くにいて、紳一郎様のされようを見て、このあたりの感覚がやっと身についてきた所なのだが、仕官してからも相変わらずの仕事の虫の助太郎では、そのわずかな差にも気づかなくて当然なのだろう。
助太郎は、その後に続いて状況を尋ねた義兵衛の質問に答えた。
「前回、佐倉に皆で行っていた3日間の生産高だが、量としては普通の変動幅の中で、少しも変わっていなかった。5200個を真ん中に、それを挟んで上下100個以内というのが普通になっている。主力になっている弥生さんが抜けたにもかかわらず、5200個の生産ができると思えないが、それが出来ている。考えられるのが、検査の手抜きと見て動いた。
大体1日の不合格も入れた生産数の概算だが、普通は8000個作って不良が2800個。弥生さんが抜けた時の生産量が7800個で不良が2600個。どう見てもおかしいだろ。弥生さんはほとんど不合格品を出さないのは判っているから、何もないのに不良が200個も減るのは、変だと皆に示した。
それで思い切って、その期間の間生産した合格の練炭全部、15600個を調べ直した。この工房の責任者である血脇三之丞さんはいい顔を見せんかったが、ここはきちんと締めねばならんと見て強行した。
結果は約500個もの不良品を見つけた。大体3分位の比率かな。それで、引き締めている最中よ」
3%もの不良練炭が混ざっているというのは、大問題だ。
こうなってくると、品質をちゃんと見ている近蔵をここに残すしかなさそうだ。
事情を確認した義兵衛は、名内村の名主・秋谷修吾さんと工房責任者・血脇三之丞さん、それに助太郎を加えて話合いをしたが、やはり村から人は出せない、という話になった。
三之丞さんには近蔵の後ろ盾となってもらうことを固く約束してもらい名内村に残す、助太郎と弥生さんは佐倉へ行く、との結論で話は終わったのだ。
「金程村の最初の時のことを思えば、作業に習熟している弥生さんが居るだけまだましさ」
代官宅で助太郎はことも無げに言うが、佐倉ではお侍相手に苦労するのが目に見えている。
こういった事情を近蔵と弥生さんに説明し納得してもらうことで名内村での一仕事を終えたのだった。
今回から天気情報を追加しています。この天気情報は長いことどこかに無いか、と探しておりました。
そして見つけた「弘前藩庁日誌 江戸編」ですが、そこに江戸屋敷での連続した天候情報の記載があることが判り、そこから抜き出しています。もっと早くから判っていれば、もう少し違う感じに書けたかも知れません。
次回投稿は2020/9/7の予定です。




