北町奉行所での報告と相談 <C2413>
■安永7年(1778年)閏7月17日(太陽暦9月7日) 憑依187日目
北町奉行所で四つ時(午前10時頃)であれば会えるという安兵衛さんからの連絡に従い、御殿様と義兵衛は連れ立って呉服橋御門を通り北町奉行所へ出かけた。
私邸側の勝手口から安兵衛さんの案内で屋敷に入り中で待っていると、曲淵様が座敷へ現れるなり手を振って挨拶を抑えた。
「話は手短にお願い致す。時間が勿体ないのでな。安兵衛はここに居れ。人払いは済んでおる」
「はっ、2点御座いまして、報告と相談に御座います。
この件、安兵衛殿には私が直に話すので説明を伏せるようにお願いをしておりますので、その点を御寛恕ください。
まず、1点目は3日後に向島で行われる料理比べの興行でございます。ここに武家側の行司として御三家のひとつ、水戸中納言・治保様が列席されるそうに御座います。義兵衛が思い出した所によりますと、治保様は40年間に渡り水戸藩を治め、水戸藩中興の祖と称されるお方となっております。治保様のなされたこと、具体的には『大日本史の編纂事業』により、この国の行く末に影響を与える、とのことでございました。
この件、御老中・田沼様の所におります巫女に確認を取って頂き、良き政治の参考として頂きたく、是非言上ください。また、私はその料理比べ興行で目付役となっておりますので、これを機に縁を得たいと考えております」
「水戸様は、代替わりされてからすでに一巡り(12年)しておるが、国元は未だ乱れておると聞いておる。やはり若くして家督を受け継いで、ではなかなか難しいのであろうと見ておったが、これから先の時には立て直すのじゃな。興味が湧いた。
興行の町奉行枠、もう決まってはおるが、そこはワシが出よう。義兵衛、その旨を興行の事務方に伝えおけ。
それで、2点目は何かな」
「はっ。恐れながら、御三卿の一橋様のことでございます。これも義兵衛より聞いたことで御座いますが、現当主の治済様は大変強運の持ち主で御座います。お子様にも恵まれます。
それで、今権勢をお持ちの御老中・田沼様ですが、世の常としてこれに縋る方もおれば、そのありようを憎む方もおります。巫女を田沼様の所で預かって頂くようになるまでは、田沼様と一橋様は大変仲がよかったように思いますが、松平様を田安家当主として迎え入れるよう働きかけを行った結果、きっと一橋様は田沼様に裏切られた、という思いを持っているのではないかと懸念しております。
以前ですと、田沼様の御政道に対して異を思う者や反感を持つ者が松平様を旗印に集まることが想定されましたが、今度はそれが一橋様に集まる可能性を、そしてそれにより現在進められております田沼様の新しい御政道の芽が、潰されてしまうことを憂慮しております」
義兵衛が安兵衛さんにした話より余程判り易かったのか、安兵衛さんが驚いている。
「そもそも、兄弟がおれば親は兄弟相慈しみ、いつまでも仲良くと願うものでございます。しかし兄弟の、しかも弟からすれば強力な、しかも血筋という一言で首を垂れねばならぬ競争相手でございます。元々、御三卿は御兄弟、今に至っては将軍家と従弟同士の集まりです。先々代の吉宗様は、従弟同士でも家族然として仲良く将軍家を盛り立てよ、という思いで作られた家とは思いますが、肝心の従弟の中では順位が決まってしまっており、争いがあれば熾烈で御座いましょう」
「主計助(かずえのすけ、庚太郎の官職名)、そちの言わんとすることは判った。血筋簒奪の件を念頭においたものであることは理解した。間違いなく、御老中様にはこちらから伝えよう。
それで、これは報告でなくて相談、と言っておったが、まだ相談されておらんぞ」
「現在、我が弟の壬次郎は旗本・磯野家へ婿養子となって出ております。そして小普請支配からなかなか抜け出せずにおりますが、これを一橋様の用人の一人として取り立てて頂くようしかるべく筋へ推挙して頂くようお願い申し上げます。これが相談ごとで御座います」
いろいろと事情・背景がからんでいるようだ。
まず、壬次郎が婿養子となった磯野家。
古くから譜代の旗本で、常陸国筑波郡に2つの村を知行地として拝領しており、表の石高400石。
小貝川東岸の取れ高250石の下小目村(現つくばみらい市)を中心に代官所を置き、少し離れた戸崎村の150石を加えた計400石で知行地が構成されている。
磯野家に入り家督を譲られた壬次郎は、まずは収入の改善を図るため、里の細山村に倣い新田開発に力を入れ始めた。
場所は下小目村の北側にある湿地で、ここを開拓して新田の開発をしている最中であり、新田規模は約150石と見積もっている。
後に青古新田と呼ばれたこの開拓地は、後に磯野家の知行地として170石が内々で追加されることになる。
そして、無役旗本を集めた小普請支配。
こちらは無役で石高3000石以下の旗本、しかもかなり多くの人数を、小普請奉行配下の番方に分けて編成したものである。
ただ、この小普請支配に入ると常時城勤めの必要は無いが、まず無能という烙印を押され、その上少なからぬ小普請金を納める必要もあり、財政的にも困窮することから、多くの者は有力者を頼って猟官活動に精を出すことになる。
むろん、猟官活動にあたっては、それこそ賄賂が横行することになり、ますます財政的に困窮の度合いを深めていくことになる。
また、当然のことながら旗本の数に比べお役の数が余りにも少なく、一度小普請支配に入ると中々抜け出せないというのが実情だった。
普通であれば、こういった猟官活動・有力者への推挙のお願いには、結構な金額を根回し金として積む必要がある所を、御殿様は手土産もなしに『さらっ』と見事に切り出したのだ。
正しく金子ではなく情報を売った代償ということで、難題をふっかけているのだ。
曲淵様は、小首をひねってから質問をしてきた。
「その壬次郎殿は、元は御兄弟ですな。失礼ながら、田沼意知様にお仕えした甲三郎様と見比べてどの程度才気があると見ておる」
「我が里では、5歳から10歳になるまで男女貴賤を問わず、皆一律寺子屋で学ばせていることは御存じで御座いましょう。寺子屋の師匠が評するに、算盤は甲三郎が若干秀でているがそれ以外は似たようなもの、と言っておりました。
私の目からでは、4歳年下の甲三郎は短絡的で目先の利にまどわされ易く、それに比べ2歳年下の壬次郎の方が先を見る目に長けているように見えました。ただ、壬次郎は己の意見・本音をなかなか言わぬゆえ、誤解されやすい所があります。
養子に行った先の磯野家が小普請支配下で御城への常勤が無いことを知ると、禄な猟官活動もせず『まず家の足腰を鍛えることが肝要』と称し、知行地での新田開発に自から乗り出したと聞いております。
これは、あくまでも兄という立場で、贔屓目で見た話しでありますことも御承知下され」
「よし、あとはこちらで考えさせて頂こう。一橋様の御家中への推薦だな。就任時に役高を与えることは無理かも知れぬが、とりあえず先に頂いた話も含め、御老中様に耳打ちはしてみよう。そうさな、具合について早ければ3日後の料理比べの時にでもしよう。
ワシはもう引っ込むが、まあゆっくり茶でもしていけ」
これで曲淵様との話は終わった。
「のんびりしていけと言われたが、宿題があろう。義兵衛は武蔵屋へ行き、町奉行枠の変更を知らせる必要がある。当日の席次表をこさえる版木屋も今から変更では大変だろう。
ワシは、これから磯野元次郎殿の屋敷へ行ってご隠居に顛末を説明せねばならぬ。これが吉とでるかどうか、ぬか喜びさせることにならねば良いがなぁ。とりあえずは『ワシと同じく、役高無しだが』と予防線を張るか」
そして早々に、御殿様と一緒に北町奉行所を後にし、呉服橋御門を出てから二手に別れたのだ。




