水戸中納言・徳川治保様 <C2411>
里のお館に帰着の報告をした義兵衛は御殿様から直に座敷へ呼び出された。
「思ったより早い時刻に着いたのぉ。それならば祝宴まで時間が取れる。
それで、紳一郎が言っておった『行列への参加よりも重要な件』とは何であるのか」
御殿様の横に座るお館の爺・泰兵衛様が、御殿様に代わり尋ねてきた。
「はっ、今月20日に向島の秋葉神社別当満願寺で行われる料理比べの興行の事でございます。
我が殿におかれましては、興行の目付役をお引き受け頂き参加されますが、その時の武家側行司として、水戸中納言・徳川治保様が直々に御列席なされるよしにございます。
この話は、この興行の勧進元となっている武蔵屋の女将が昨日明かしてくれたので、事務方の中でもまだ一部しか知らないことでございます。このことが知れ渡るのは、興行前日かと思われます。
経緯でございますが、この勧進元を引き受ける武蔵屋が申すには、向島に水戸様の下屋敷がある関係で、得意先である下屋敷の御用人へ参加を打診したそうにございます。それがなんと中納言様の御耳に届き『面白き興行ゆえ自ら参列したい』と言い出された、とのことでございます。水戸藩では、お忍びでの参加という恰好にしたい意向ですが、これがため従者の数や警護の配備など、勧進元を通しての細かな調整が続けられておるそうです。
おそらくは、水戸中納言様は御年まだ28歳と若い方でございます故、面白いものに御興味を持たれたのではないかと推察致しました。
それで、水戸中納言様が参加なさるとなれば、この興行は御三家が参加される格の高い興行となります。
高位の方と知り合う良い機会になりましょうぞ」
義兵衛の報告は、すぐさま泰兵衛様を大いに興奮させた。
「これは殿、誠に良い機会でございますぞ。
江戸では、御老中・田沼主殿頭様や御三卿の田安家に返り咲いた松平越中守様・いや徳川定信様と親しくして頂いております。この上、御三家の水戸中納言様とも縁ができるとは。
いや、この義兵衛は大した者でござる。この者を仕官させた殿の人を見る目は、確かでござった」
「だがのう、爺。本音を言えば、そのような偉い方々と交わるのは、わしゃ面倒じゃ。里さえ確かであれば、それで良い。
ところで義兵衛、お前は水戸中納言・徳川治保様の名を知っておったな。一体どのようなことじゃ。
ああ、爺。直ぐに茶室を用意せい。それから人払いじゃ。安兵衛はいつも一緒じゃが、まあ曲淵様にはここから聞こえた話には多少目をつぶって頂こう」
すぐさま茶室が用意され、御殿様、安兵衛さん、義兵衛の3人だけがこもった。
周囲はお館の爺が見張っており、話が漏れる心配はなさそうだ。
「率直に聞こう。歴史に名を遺す者しか知らぬと以前申しておったな。それ故、我が椿井家の隆盛のことは知らぬ、と。
それがどうじゃ、徳川治保様のことを知っておるではないか。
12年前の明和3年(1766年)に若干16歳にて従三位右近衛権中将となられ、水戸藩主の家督を継いでおろう。
前藩主の宗翰様は、藩政の改革頓挫から晩年には屋敷に籠って遊興にふけっておったそうな。その後を任された者はさぞかしや苦労が絶えぬことになっておろう。
それでじゃ、義兵衛。何を思い出した」
横で聞いていた安兵衛さんが息を飲み、目を剥くのがはっきり判った。
里に戻る時に説明したカバーストーリーと全く合致する状況が発生したのだ。
「はっ、治保様は40年間という長き間水戸藩を治められ、水戸藩中興の祖と呼ばれる方にございます。
神託にあります大飢饉の後に大変活躍される方で、現在20歳である松平定信様・いや徳川定信様とも志を同じくして、後の世に『寛政の改革』と呼ばれた改革を藩内で行われております。
その特徴は、藩制を替えるだけでなく、殖産産業への注力、消費促進、学問奨励などでございます。
特に、学識ゆえに召し抱えをした者を顧問として政治に活用すると供に、光圀公が始められた『大日本史』の編纂事業を軌道に乗せております。
こういったことで、水戸藩の人達が後世の新秩序を生み出すにあたっての下地となる部分を整えられた文人として存じておりました」
御殿様は黙って聞いていたが暫くして意見を述べた。
「そちの知恵を使って、この椿井家の安泰を図るために色々と考えてワシも動いておる。
家治様から強く御支持を受けておられる御老中・田沼様とその後を継ぐであろう現奏者番の意知様に弟・甲三郎を仕えさせた。
その一方、紀州からの新参者である田沼様の栄達を快く思わぬ従来の幕閣達は、御三卿の分派である松平定信様を旗頭に据えるという助言から、この無用な対立を避けるべく、意次様と定信様の和解を仲介した。神託を持つ巫女を意次様に献上したのが利いておるのだがな。
定信様が田安家に返り咲いたこと、水戸の治保様が定信様と志を同じくすること、意知様と協調できる状態になったこと、次期将軍・家基様という非常に若い者達が、次の政治を仕切って行くとワシは見ておる。
仲違いするはずであった双方にそれぞれ兄弟で分かれてついておれば、どう転んでも家は安泰と考えておるのだが、義兵衛はこの局面をどのように見る」
想定していたのは、外交・経済政策は田沼様、領民・内政は定信様という盤石な組み合わせで国を運営すれば良いと考えたのだが、どうやらその石組でこれからの歴史が形作られていくようだ。
松平定信様が、今の段階で田安家に返り咲くという歴史は、もはや知っている範疇ではない。
ただ、気になる点もある。
「はっ、人の営みにつきましては、既に私の覚えのある範囲を超えております。それゆえ、神託での話はすでに大きく外れておりましょう。
しかし、今気になりますのは御三卿の一橋家のことでございます。
これは私の推測であり事実とは異なるかも知れませんが、田沼様と一橋家の徳川治定様の間で田安家の件をめぐり衝突している可能性がございます。
もともと、一橋家の家老として田沼様のご家来衆が担われておりました。その図式は田沼様が一橋家と組まれて、田安家と定信様、それに水戸様を入れた方々を抑えていた、というものです。
ところが、一橋治定様の目から今の動きを見れば『田沼に裏切られた』という様に思われてもしかたございません」
「そのような見方もあるな。それで、何を考える」
「御年28歳になられる一橋家の徳川治定様は、先々野望を持とうとしている節がございます。田沼様はこのことを巫女の話から聞き、距離を置いたものと拝察しております」
義兵衛は、将軍家の血筋を一橋家が塗り替えたという説明を曲淵様と田沼様にした事について、御殿様へ報告済であると念押しした上、おそらくその頃から田沼様の一橋家に対する姿勢が変わったのではないか、との推測を伝えた。
「徳川本家を紀州様の血筋で塗り替えたのと同じことを一橋様は結果としてなさるはずでしたが、どうやらそれは変わったようです。
しかし、一橋様はそのような力・強運を潜在的にせよ持つお方でございますから、お家安泰のためには、治定様かそのお子様には何某かの縁を持つことも必要かと思います」
「うむ、意見としては聞いておこう。
こうなってくると婿養子に出した壬次郎が手元にあれば、と残念に思うぞ。
さて、安兵衛殿。この件ばかりはワシから直接に曲淵様へ報告せねばなるまい。一緒に江戸へ戻り次第、義兵衛を連れて訪問したい旨だけ伝えるように配慮願いたい」
安兵衛さんは茫然自失の体に見えた。
お家安泰のため、兄弟を分けた三又戦略が今目の前で行われていたのだから、しかもそれをわずか16歳の義兵衛が倍以上の歳の御殿様と差しで意見交換していたことに、混乱しない方がおかしい。
歴史が作られる裏側を、その瞬間を目の当たりにしたのだ。
「先のことをほんの少しでも知っている、というのがこれほど大きい影響を持つのか」
安兵衛さんは、蚊の鳴くような小さな声で、ぼそっと呟いた。




