叙任の祝宴会 <C2407>
■安永7年(1778年)閏7月11日(太陽暦9月1日) 憑依181日目
4日前に萬屋でいつものうっかり話をしてから、どうなったか、特に安兵衛さんの筋で動きがあるか気にしていた義兵衛だったが、特段の話もないまま御殿様の叙任の日が来た。
義兵衛は萬屋での失敗に懲りてこの3日は屋敷の帳簿・金銭出納の読み解きを紳一郎様に請い、熱心に調べて過ごしていた。
義兵衛が直接指揮する七輪・練炭と屋敷を通さない小炭団の売掛は、かなり大きな金額ではあるが屋敷の帳簿では別枠扱いとなっている。
ただ、初期の卓上焜炉・小炭団と練炭の売り上げ利益で義兵衛が萬屋から持ち帰った分と、萬屋さんの娘・華との婚約に伴う結納金については、しっかりと算入されていた。
それまでの商家との借金は全部一括早期返却され健全化している。
さらに、親戚・親族・同僚からの借金も返し終わっていることが確認できた。
あとは、椿井家から貸している分だが、あまり多くもなく、最近増えてもいないのが幸いである。
通常であれば、猟官活動で口利きを頼むなどしてお世話になった方への礼金も必要なこのご時世なのだが、此度の叙任は御殿様自らの言動より御老中直々に推薦されたものであるが故に、礼金の支出もなかった。
ただ、御老中・田沼主殿頭様(意次様)と白河藩主・松平越中守様(定信様)には相応の手土産を持って挨拶はしていたようだ。
今日の人事は御殿様だけでなく、定信様が白河藩主を兼任したまま御三卿の田安家当主に返り咲くことが事前告示されるため、御殿様の叙任の件・勘定奉行配下に新設される期間限定の油奉行については、もはや大事件ではなくなっていた。
叙任が行われる日は上天気で暑さも厳しい折ながら、主人不在の折にもかかわらず手土産を携えて挨拶に来る商家の者が多く、その記帳・手土産預かりなど、主人の代理として留守をさせられていた紳一郎様はてんてこ舞いの忙しさであった。
夕方になって御城から御殿様が下城してくると身内だけでの小宴会と、家臣長屋での小宴会が並行して行われる。
身内宴会の開始に先立って、冒頭家臣宴会に御殿様は顔を出された。
「皆の働きにより、将軍・家治様に直々の御目見えを無事果たし、官位として従六位下を賜り、城内での布衣を本日より許された。そして、御老中様肝入りの油奉行へ就くようにと、御役を任ぜられた。官名は、主計助である。従い、城内では椿井主計助と呼ばれることに相成った。
明日からは関係する者達が集まった場所での接待となる。皆にも色々と手伝ってもらうことがまだまだ多かろうゆえ、しっかりと英気を養っておいて頂きたい」
家臣達の意気が上がる言葉を述べると、御殿様は長屋の宴会場から屋敷へ戻っていった。
身内、といっても奥方様のご実家の面々、婿養子に行った弟の家の方々を招いての宴会である。
このたびの栄誉を披露するについても、御殿様としては結構しんどい腹芸を要求されるに違いない。
くたびれて逃げ出す先となる家臣達の宴会場にまず顔を出しておく、というのは正解かななどと思う内に宴会は進む。
今日の屋敷・長屋での宴会は、近くで贔屓にしている京橋の坂本の仕切りによる仕出し膳尽くしとなっている。
しかも、なんと酒以外の膳は日ごろの御恩ということで無償での提供を申しだされていた。
義兵衛の働きによる所も大きいのだろうが、義兵衛も他の家臣達もこのことは誰も口にはしなかったのだ。
義兵衛の周囲だけ微妙な雰囲気のまま、それでも宴会は続いた。
『多分に時期を得たということも大きいのだろうが、たった半年でできた成果としては大したものだ』
義兵衛は自分自身に言い聞かせた。
■安永7年(1778年)閏7月12日(太陽暦9月2日) 憑依182日目
明けての日は関係する武家を相手の接待となる。
上司にあたる勘定奉行様とそのお付きとなる勘定頭の面々、同僚となる油漆奉行とその与力衆、配下となる与力・同心と結構な人数にあたるのだ。
ただ会場は屋敷ではなく、向島の有名料亭である武蔵屋での宴会となっている。
早朝から他家との窓口となる予定の一部家臣達は武蔵屋に出向き、客人の座席と人物特徴の覚書を比べている。
事前の調整はすでに終わっており、招待客との関連が薄い義兵衛は出る幕はなさそうだった。
手持ち無沙汰にしていると、武蔵屋の女将が話しかけてきた。
「これは義兵衛様、この武蔵屋を引き立てて頂きありがとうございます。このたびは、御殿様の御出世、まことにおめでとうございます。
それで堅苦しい挨拶は置かせてもらいまして、御相談がございます。それは8日後に行われる本所・深川・向島地区の料理比べのことでして。
義兵衛様のご指導で料理番付では大関、今回の料理比べでは勧進元・行司となることができ、大変感謝しております。今回の旗本・椿井様の御宴会ではお酒以外は無償とし、少しでも恩返ししているつもりでございます。
それで……」
武蔵屋の女将の懸念は、今までの興行で裏を仕切っていた義兵衛が事前に参加していないことへの危惧だった。
特に、会場である秋葉神社の別当満願寺との価格交渉で思ったように進まず、その準備を気にしていたのだ。
確かに、今まで会場としていた幸龍寺のような訳にはいかず、生坊主達が欲に目がくらんで勝手をしている可能性が考えられる。
義兵衛は思わず満願寺の社務所で話合いをした時に見た経理担当の原井喜六郎さんの顔を脳裏に浮かべた。
神社の御印を頂く価格改定では、辰二郎さんが口を挟んでくれたので御印を押す対価を安く抑えることができたが、そうでなければ寺側の利益を得ることを優先していたに違いない。
興行全体は八百膳の善四郎さんがしっかり見てくれていると思うが、地区予選の興行で満願寺が近視眼的な目で儲けしか考えてないのであれば、幸龍寺のように協力的になってくれていないことは充分考えられることなのだ。
「どうも日程的に厳しいような感じですね。明日の関係町民との宴会は、京橋の坂本の店で行うのですが、流石にそれは抜けられないし、その後は御殿様と知行地へ戻る予定なのです。
しかし、興行の成功のほうが大事ですよね。御殿様と一緒に里へ戻るのを1日ずらし、八百膳さんの主人と示し合わせて満願寺への対応策を考えることにしましょう」
義兵衛の色よい返事に武蔵屋の女将は顔を綻ばせ、有力な情報を義兵衛だけにこっそりと耳打ちしてくれた。
「実はまだ確定してはいないのですが、御武家様の行司として、水戸中納言・徳川治保様が列席して頂けるような感じなのです。明後日にははっきりすると思いますので、詳しいお話はその時にでも」
義兵衛に深くお辞儀をした女将は、足早に次の作業に向かっていった。
確かにこの向島には水戸様の下屋敷がある。
どいった経緯で水戸中納言様が参加されるのかは判らないが、それが本当であれば得難い機会であるには違いない。
御殿様は本番の20日に目付役として参加されるのだ。
非常に重要なことになったのを理解した義兵衛は、それとなく重要な機会があることを紳一郎様にほのめかして、明後日の帰郷を調整をしてもらうこととなった。
そして義兵衛は、明後日の14日に御殿様の供をして帰郷するのは諦め、15日のお館での祝宴には遅れてでも顔を出し、16日に江戸の屋敷に戻る、という段取りで済ませることとなった。
■安永7年(1778年)閏7月13日(太陽暦9月3日) 憑依183日目
出入りの商家をまとめて、京橋の料亭・坂本を借り切っての供応の日である。
義兵衛のかかわった商家の主人だけでなく、御殿様や奥方様の関係する商家の方がはるかに多い。
また、最近になって椿井家の羽振りが良いことを知ってか、新たに御用伺いをしてくる商売人も増えたようだ。
だが実際の財務としては、七輪を椿井家で一度引き取ることにしているため、深川の辰二郎さんの工房と山口屋への借金は膨大な額になっている。
この木炭関係と米の買い付け関係の費用だけは、義兵衛専用の別帳簿で管理し、利益が出れば椿井家の収入とする指針なのだが、大赤字のまま年末を迎えることだけは御殿様への約束もあり絶対避けねばならないのだ。
お祝いに参集してくれる面々を見て、義兵衛は一層気持ちを引き締め、自らを鼓舞した。




