萬屋本宅に向う <C2405>
■安永7年(1778年)閏7月7日(太陽暦8月28日) 憑依177日目
屋敷の中は、昨日の献上の件での盛り上がりが続いていた。
今まで小普請組の一員だった御殿様が、この献上を機会に御役に就くことになるのだ。
御役による禄の加算はないが、それでも旗本としての誉れ・家の名をあげることができて純粋に嬉しがっている。
奥方様も御実家へ肩身の狭い思いを思いきり晴らせることができて、この所すこぶるご機嫌な御様子だ。
もっとも、この御役・油奉行自体が期間限定のものであることは、家臣の中でもまだほんの一握りの者しか知らされていない。
ましてや、松平定信様が現在の白河藩主を兼ねたまま田安家に返り咲くという城内の噂が現実のものであることも、御殿様が定信様から田安家の御家老に嘱望されたがそれを固辞したことや、今回任命される御役を無事務め終えると田安家・定信様の側用人として任命され指南役という重責を担うということも、家中で知っているのは当事者である御殿様以外では紳一郎様だけに違いない。
ただ、このような状況を作り出した原因が義兵衛にあることを皆は薄々気づいており、家臣の仲間内という立場とも少し違う新参者ということも相まって、はっきりと義兵衛は浮いていた。
また、そういった事情の要となっていた義兵衛の立場では、うっかりの一言が命取りになりかねないことを懸念し、家臣一同の中に入って同じように騒ぐことも憚られていた。
そこで、昨日に続いて屋敷を抜け出すことの了解を紳一郎様に求めた。
「昨日萬屋に返却した大八車のお礼を兼ね、これから萬屋へ参るつもりですが、宜しいでしょうか」
「うむ、そうさの。御殿様から何がしかの下問もあるやも知れぬゆえ、連絡できるようにはしておけ。
それから、昨夕報告をしておった中に籾米買い付けの件があったであろう。ワシも気になって御殿様に確認したところ、すでに話を通しておった。
お上の勘定所の取箇方・廻米御担当の蜂屋様に是とする書面を頂くこととなっておると聞いた。
『知行持ちの旗本が米を大量に買い集める』ということは常ならぬこと故、誰がどのように許可を出すかで勘定内でもめたそうじゃ」
紳一郎様は軽く笑い話のように説明したが、義兵衛はその内容に驚いた。
御殿様は江戸の常識・武家社会の縦社会に対し、義兵衛の知恵が回らないことを察し、色々と助けてくれているようだ。
「私の思慮の足りないところを見抜いて先廻りされるとは、慧眼にただただ恐れ入るばかりでございます」
紳一郎様の向こうに居る御殿様を思い、深く礼をしてから屋敷から出た。
横にはいつものように安兵衛さんがピタリと並んでついている。
「義兵衛さんには驚かされますが、その義兵衛さんの動きを読んでいるこちらの御殿様にも改めて驚きました。
それとも御屋敷の中で私の知らぬような話がいつも出ているのでしょうか。もしそのようであれば、義兵衛さんが寝るまでご一緒せねば御奉行様の御用を果たせませんな」
「いえ、安兵衛さん。行動や言動をかいつまんで報告しているだけで、そこから新しいことを検討している訳ではありませんよ。
ただ今回は、米問屋の伝兵衛さんに指摘されるまで気づいていなかったことを、御殿様が先に察知して先手を打っていたとは、私こそ驚愕した次第です。
しかし、こういった事前の許可については、御奉行様や御老中様であれば気づいていたのかも知れません。今日のことを報告されるときに、お聞きしておいて頂きたいものです」
もし執政を担当する奉行や老中が認識していたのであれば、義兵衛にこの世の常識が足りないということになる。
そうでなければ、椿井庚太郎様の優秀さを印象付けることになるに違いない。
道々そういった会話をしていると萬屋に到着した。
いつぞやのように裏口から入り、奥の小部屋で丁稚姿に着替えると店中に出た。
「あぁ、これは義兵衛様ではありませんか。
もう松平様への御用聞きの御用は終わっておりましょう。それに華さんの嫁ぎ先の婿様が、今更丁稚の格好ではおかしゅうございますぞ。ほれ、新しい手代や丁稚共が混乱しているではありませんか」
大番頭の忠吉さんがあわてて店中から奥の小部屋へ押し戻した。
「他の木炭問屋に比べれば賑わっておる萬屋ですが、今は人手が充分に足りております。秋口に備えた人揃えも終わっておりますので、店のほうは良いのです。それより八丁掘の本宅で、お婆様や華お嬢様のお相手をお願いしますよ。
主人の千次郎さんもまだ本宅でしょう」
どうも勝手が違ったようで、忠吉さんに怒られてしまった。
萬屋の本宅は敷地に炭蔵を建てており、今回献上した練炭もここから運び出したものだった。
「千次郎様、お婆様、このたびはお上へ献上する練炭をご用立てて頂きありがとうございました。無事献上も済ませ、11日には新設の奉行に叙任することが確実となりました」
「婿殿、堅苦しい挨拶は抜きにせぬか。もはや身内同然であろう。
それで、此度の献上は武家に食い込む段取りの一つ、ということは千次郎も判っておる。同程度の献上は今後も毎年必要であろうが、何ほどのことでもない。練炭1000個の売値は50両(500万円)じゃが、その程度の献上で練炭の流行が促されるのであれば安いものであろう。
店はこの夏場にもかかわらず炭団商売で回っておるゆえ、多少の無理は利くという状況じゃ。
それでな、高台の練炭蔵について以前相談しておったが、上野近くの金杉村・根岸に蔵を借りることができた。高台という訳ではないが、日光街道沿いで下谷金杉本町から乾(北西)方向に入って、御行松不動堂の向かいの場所じゃ。
名内村からの練炭はここに貯めるようにしておる。浅草から足を伸ばすことになるが、一度様子を見に行ってもらいたい」
新しい蔵が『御行の松』の向かいとは何やら縁起がよさそうだ。
詳細を聞くと、音無川に囲まれ、西蔵院の不動堂と向き合っている場所とのことだ。
江戸の大松ということで評判になる場所ということであれば、洪水などの自然災害で消滅することもなかろうから、まずもって安心だろう。
川筋沿いということは、ある意味防火帯に囲まれている。
明暦の大火でこのあたり一帯がどうだったのかをまず調べてみる必要がありそうだ。
そう言いだそうとした時に、千次郎さんが割り込んだ。
「お婆様、今からでは中途半端になりましょう。それよりも義兵衛さん。
娘の華が奥で待っています。時間があるなら先日のように親しくお話などしていってくだされ。
娘の機嫌が良いと家の中も明るくなり、ことの他嬉しいことなのですよ」
千次郎さんの言にお婆様も頷いているが、先だっての金子の遣り取り以降、どうやら弁の立つ娘の扱いが難しいようなのだ。
華さんと笑談することについて義兵衛も否はなく、本宅の奥へ向った。




