まずは練炭を作る相談からかな <C204>
この話を書くために図書館に入り浸って地域の歴史家が調べて出版した本を読みます。古文書を紐解いて現代文で解釈してくれる本の有り難さが身に染みます。
「出来が半減ということならまだしも、3割減少という事態でも悲惨なことはよく判った。
この天災はどれくらい続くと言ったっけ」
「天明2年(1782年)から天明8年(1788年)の7年間だ。
1年目でこの状況だから、これが7年続いたら回復できないほどの影響を受けるに違いない。
今回極端な例として明らかに目に見える3割減少を選んだが、1割、いやその半分の5分減少が7年続いたらどうなるかをちょっと考えてみようか」
「5分ということは、まあ普段より9俵少ない程度ということか。
これなら乗り切れるのじゃないかな」
義兵衛は意外に計算が早い。
これなら数字での説得は早そうだ。
「村にはいつも大体50俵分の蓄えがあるので、6年分に相当するからここまでは耐えられる。
しかし、7年目は5人分の10俵ほど足りないなあ」
机上での計算は概ね合っている。
しかし、領地の中に多少でも余裕がある村とあまり余裕がない村がある場合、殿様は負担を均等にする動きになるに違いない。
すると、最終的には殿様を巻き込んで飢餓対策を建策するしかないことは明らかなのだ。
だが、実力の証明もできない今、何を言ったところで相手にされないのは間違いない。
まずは、この村の中できちんと対策できることを済ませるのが一番であろうと考える。
「5分程度の不作だと、どうにか頑張って乗り切れるようだが、それ以上の不作だと手の打ちようがないということは判りました。
なるほど、このような積み上げで予想することができるのですね。
それで、まずはどこから手をつけましょうか」
まあ一番出費として痛いのは定量で納める年貢米である。
天候不順で米が取れない状況にもかかわらず、定免法を盾に毎年同じ量の米を納める必要があるのだ。
殿様は開墾にも熱心とは言え、お膝元の190石の細山村を中心に開墾を指揮しており、元々地味の痩せている金程村はお構いなしという感じであることを義兵衛から聞かされた。
放任されているのであれば、米に代わって35石相当のお金を納めることができれば、ある程度自由裁量が効きそうな雰囲気ではある。
義兵衛に確認すると、確かにそのような感触とのことだった。
「まずは年貢対策を考えるのが良いと思う。
木炭の掛売り代金15両が年貢米15石に替えて納めるようになっているが、誰がいつ、どうやって交渉したのかは判らないが上手い仕組みだと思う。
こういった掛売りを増やしていって35両相当にし、米を年貢として納めずに済む方法を考えてはどうかな。
まずは、木炭の掛売りのことを教えてくれ」
「木炭は丁度今頃の農閑期に集中して作ります。
大工の家の彦左衛門さんと僕と同い年の助太郎が中心になって炭焼きをしています。
昨年秋に切り出した木材を冬一杯乾燥させてから炭焼きガマに約1週間かけて焼き、木炭にしています。
4貫(=約15Kg)分で1俵にして、だいたい年間200俵程度作り、炭屋へ卸しています。
出来の良いものは1俵あたり銀4匁(=400文=10000円相当)で卸せますが、小枝や寸法の揃わない質の悪い木炭はザクと言って1俵あたり銀2匁(=200文=5000円相当)になってしまうことがあります。
多分3分の1位、おおよそ60~70俵の木炭はこういった安値で買い叩かれています。
それで結局、年間にすると銀600匁(=金15両=150万円相当)分をどうにか掛売りしているという感じです。
木炭については、3俵(=45kg)程度まとまると、荷梯子にくくり、人が担いで多摩川縁の登戸村まで持って行き、そこにある商人の出先である炭屋に卸しています。
大山街道と交差する溝口村、東海道と交差する川崎宿まで持っていけば、もう少し高い値がつくのかも知れませんが、この重さのものを背に担いで売りに行くにはちょっと距離があるので、簡単に日帰りできる津久井街道沿いの登戸村のところで卸すということです。
商人は、金程村だけでなく周囲の村々から買い集めた木炭から上物を選び、多摩川を下る船に乗せて江戸の本店へ送り込んでいるようです」
なるほど、木炭についての状況は判った。
年貢分を全部木炭でたたき出そうとすると、金35両分の木炭を生産しなければならないが、そのためには年間200俵ではなく2倍以上の460俵を生産する必要がある。
しかし、木炭を増産するとなると、それだけの人員を割いたり原料となる木を乱伐したりと、長い目で見た時に結局は首を絞めることになりかねない。
そう考えると、単に木炭の生産量を増やすという手を使うのではなく、木炭を加工して付加価値を与えることで売り上げ総額をかさ上げすることが好ましいということに思いあたった。
こうなると未来知識の出番である。
木炭の加工で簡単に考えられるのは「成型木炭」である。
立派な木炭はそのままでも良い値がつくのでこれは使わず、安く買い叩かれたり売り物にならない細い枝や割れ目の入った木炭を使えばよい。
これを砕き、粉に近い状態にしてからニカワや麩糊で固める。
形や大きさは、俺の知識にある練炭と同じものにしよう。
家庭で使う七輪では4号練炭が一般的なので、この大きさを意識する。
確か、1個が約1.3キロの重さで、直径約12センチ、高さ約12センチで蓮根のような穴が開いた練炭のイメージを思い出した。
こちらで扱うとなると、直径4寸=12cm、高さ4寸=12cmと少し大きめかな。
そして、これを使う七輪も同時に作って売ろう。
もちろん、練炭・七輪は明治時代の日本で発明・製造されたもので、この時期には影も形もない品物なのだが、練炭・七輪は昭和・平成でも使われていることから、その有効性はお墨付きだ。
この内容を俺は義兵衛に話し、その父・百太郎に説明するためのシナリオを一緒に作り始めた。
「ところで、義兵衛さんの家は農家なのに、なぜ伊藤という姓があるのかな」
この時代、公家・武家には苗字があるが、その他である大勢の農民には苗字がないと認識している。
明治になって、戸籍が整えられたときに一斉に苗字を付けたという話を聞いているので、ちょっと引っかかっているので聞いてみた。
「我が家は、元々北条氏の家臣だったと伝え聞いています。
もっとも、名のある家ではなく家臣のお抱えだった武士、つまり北条の直臣ではなかったようです。
実はこの近辺の村には北条崩れの家が結構あって、それぞれ村の運営を行う名主級の所に収まって居る関係で、頻繁に連絡はあるようです。
今の村の規模での上下関係ではなく、昔の格式で上下があるようで、僕にとっては難しい関係です」
どうやらこの地域一帯は、農民の上に旧北条武士が差配している土地に、もしくは北条武士が農民に転進した土地に、徳川の旗本が知行を与えられて支配しているという図式が見えてきた。
元武家が農家となっていることから、この村人が教育に熱心な背景や義兵衛がちょっと農家らしからぬ口調である理由が少しわかった。
そして、村を采配する家の間に上下関係があることからも、飢餓対策を打つにせよ、飢饉の真っ只中ではこういった周囲の村との軋轢が頻繁に起きることも視野に入れておく必要がありそうだ。
認識違いがありましたらご指摘いただければ幸いです。ただ、変更可能な部分とそうじゃないところがありますのでご容赦ください。よろしくお願いします。