吉見屋敷での実演開始 <C2397>
■安永7年(1778年)閏7月1日(太陽暦8月22日) 憑依171日目
ほぼ1ヶ月前に、名内村へ炭焼きと練炭作りを教えに向かった時と同じ面々を引き連れて、義兵衛達の一行は佐倉へ向かっていた。
練炭を作るための道具や材料となる木炭・粉炭をそれぞれ背負っていた。
佐助さん率いる樵の面々は、名内村を引き払い生活用品類も持参していた。
また、木野子村で20日ほどかけて炭焼き窯の作り方や木炭の作り方を教えるのだが、そのための道具もある。
よく見ると、名内村で作った鏝などもあるようだ。
約6里(24km)ほどの距離で、江戸に行くよりはよほど近いはずなのだが、幾つかの谷戸をまたいでいくため、細かな上り下りが続き、重荷を運ぶため結構しんどい道行となっている。
それでもどうにか昼過ぎには佐倉城下の吉見家に到着することができた。
「治右衛門様。練炭の作り方を見せてくれる面々を連れてきました。
明日、この中庭で小規模ですが練炭作りを見せ、また希望があれば何個か作ってみて頂きたい、作らせたいと考えています。
それから、当面の資金として100両用意しました。ただ、念のため萬屋さんあての借用書を書いてください。この100両は江戸の萬屋に作る売掛金から差し引くことになりますので、必ずや練炭作りを成功させてください」
義兵衛は懐の奥から、華さんから貰った100両を取り出し、治右衛門様に差し出した。
治右衛門様は感謝の言葉を述べると、早速に借用書を認め、出された100両と交換してしまいこんだ。
それが終わると、義兵衛は一行の各人の役割と作業分担内容を治右衛門様に紹介した。
そして、それが済むと明日のための道具類の展開・整備を助太郎に任せ、佐助さん達6名を木野子村へ連れていった。
木野子村では名主・彦次郎さんがおそらく目一杯と思える歓迎をすべく準備して待っていてくれた。
「皆様方は20日ほど居ると聞いておる。そこで寝泊りする場所は、奥庭の爺様が昔住んでおった家を掃除して使えるようにしておいた。夜具もそれなりに揃えておいた。不自由することがあれば、何でも言ってくだされ。洗濯や食事の支度はこの下女衆がするように言うておるので、自分たちでええように使ってやってくだされ」
その後は、本宅で歓迎の宴を予定しているようだった。
「佐助さん。この村の炭焼きは、結構無駄なやり方をしています。ただ『こうすればいい』ということだけ伝わった結果、進歩もなく、いやむしろだんだん退化してその方法が受け継がれてきたようなのです。
なので『なぜこうするのか』といった内容を含めて教えておいてください。理屈が上手く伝われば、佐助さんが居なくなっても大丈夫だと思うのです」
「確かにそうかも知れんが、名内村で技を伝えることができたのは右仲さんだけじゃった。必要な木炭は苦労せんでも買えば良いという姿勢はワシ等には判らんが、ここでも同じようなら甲斐の無い仕事になってしまうのが心配じゃ」
「それは余り心配しなくてもいいですよ。この村は木炭を売る側ですから。そのあたりは、直接村の人に聞いてもらえば判ります。どれだけ原料となる木材があるのかも見ておいてください。私は今日はもう佐倉城下へ戻りますが、明後日にでも様子を見にきますので、その時に様子を教えてください」
義兵衛は明日の支度が気になっていたので、佐助さん達を残して戻ることにした。
■安永7年(1778年)閏7月2日(太陽暦8月23日) 憑依172日目
勘定方の吉見家中庭には8人のお武家様が集まっていた。
「御家老様の仰った条件にかなう、知っている30人程に声をかけて見たが、半分も集まりませなんだ。もっと多く参加すると踏んでおったのだが、私ではまだ人望が足りてないのかも知れませんなぁ。
そして、この事業で百姓のような汚れ仕事をすると判れば、この8人のうち実際に残るのは一体何人になるのか、先が思いやられるなぁ」
実演して見せたところで、どれだけの人が賛同するのか不安になっているのが良く判るが、そこは説明次第だろう。
集まったのは多少でも興味を持って、重い腰を上げて来た者達なのだ。
練炭作りに携わる意図・狙いをどう言うのかにかかっていると考えると、治右衛門様の労働力に対する姿勢が見えるに違いない。
何にせよ最初の動機づけが肝心なのだ。
準備が整うと治右衛門様が挨拶を始めた。
「我が佐倉藩の特産として練炭を作る方針となった。この事業は御家老様直々の指名で私が総責任者となっておる。木炭を加工することから、結構汚れる作業ではあるが、実入りが良い。得られた売り上げに応じて皆にも給金を出せる予定なので、是非協力頂きたい。どのような作業なのかは、この木炭加工を勧めてきた旗本・椿井様のご家来の方に実演してもらうことになったので、様子をよくみてもらいたい」
勘定方担当の視点から一歩も踏み出していない話で、まったくダメダメな挨拶の見本になっている。
治右衛門様の挨拶が一息ついた所で、義兵衛が背景説明を兼ね活が入る話をすることにした。
「旗本・椿井家の知行地で木炭加工を指揮しておりますが、里の村で作った練炭を江戸市中に売ろうとしております。ただ村の規模が小さく必要と見込まれる量を作ることができません。そこで、江戸市中で必要とする量、月150万個もの量を作る能力がある佐倉藩に話を通してもらいたいと御老中・田沼主殿頭様に頼み、堀田相模守様に策を上申させて頂く機会を頂きました。その結果、御家老から治右衛門様を責任者として事業を始められるお許しが出たのです。
ただ、最終的には江戸の需要を満たすに充分な生産をしたいと考えてはおりますが、まずはどういった物をどのように作るのかの要諦を理解して頂く必要があり、皆様の前で実演という形になりました。
ここに居られる皆様に、練炭作りの方法を習得し実際に作れるようになりましたなら、必ずや10ヶ所ほど作られるであろう新しい工房の監督となられるに違いありません」
言葉は足りないかも知れないが、おおまかな構想を伝え、事業に携わった者の行く末がどうなっていくのかを伝えた。
単純に労働力の提供ではなく、今後新設される工房の監督者候補と聞いて目の色が変わっていくのを感じた。
挨拶の説明で不足していた積極的な質問も出始めた。
「どれ位の時期に新しい工房を立ち上げることになりますのでしょう」
「うむ、木野子村で最初の工房を立ち上げ、そこで練炭を作るための作業を覚えるのが先決であろう。そうさな、皆で日産1000個作れるようになって、藩の利益が目に見えるように上がってからになる。そうすれば、御家老様も新しい工房を起こすお許しを出すであろう。皆の熱意にもよろうが、2~3ヶ月後にはそのようになっておると考えておる」
この答弁を聞き、工房新設の段取りをあからさまに人任せ・治右衛門様任せにしようとする面々の意図・姿勢に危惧を感じたが、ここは佐倉藩内のことであり、義兵衛の出る幕ではない。
義兵衛は質問が一区切りついたのを見とると、助太郎に練炭作りの実演と説明を始めるように合図を出した。




